開催までのいきさつ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 08:35 UTC 版)
「1972年札幌オリンピック」の記事における「開催までのいきさつ」の解説
札幌は、1940年に「アジア初の夏季オリンピック」として開催される予定であった1940年東京オリンピックの開催と同年に、「アジア初の冬季オリンピック」としての1940年札幌オリンピックの開催が決定していたものの、軍部の反対や1937年に勃発した日中戦争の激化を受けて、東京での開催とともに日本政府が開催権を返上してしまった。 その後、1964年東京オリンピック開催が決定されたことを受けて、札幌におけるオリンピック招致を実現させようという機運が高まり、札幌も1968年の開催に立候補するが投票で敗れ、2度目の立候補となったこの時は、同じく前回の投票で敗れたカナダのカルガリーと同じアルバータ州のバンフとの事実上の一騎討ちとなった。 1966年4月26日にイタリアのローマで開催された第64回国際オリンピック委員会(IOC)総会において、開催地決定の投票が行われることになったが、この時IOC委員の最長老であった高石真五郎は病気のため現地入りを断念し、その代わりとして自身のアピールコメントを録音したテープを同委員の東龍太郎に託した。 そして総会での投票直前、東が許可を得て高石のコメント音声を会場に流したところ、この「高石アピール」が委員の間で大きな反響を呼び、投票で札幌は32票を獲得。対抗都市はバンフ・カルガリーが16票で、フィンランドのラハティとアメリカのソルトレイクシティが共に7票だったため、第1回投票での過半数獲得により札幌の開催が決定した。 冬季大会は中止になった場合、回次が付かないため、公式的にも日本で冬季五輪初開催となった。
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