長瀬真幸とは? わかりやすく解説

長瀬真幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 08:56 UTC 版)

長瀬 真幸(ながせ まさき、1765年明和2年) - 1835年6月23日天保6年5月28日))は、江戸時代国学者・文献学者である。肥後国熊本藩の武士。通称は七郎平。号は田廬(たぶせ)、双松園。

来歴

幼少の頃、江戸時代中期の儒者である草野潜渓に学ぶ。父である長瀬正常からは有職を教わり、下益城郡守山八幡宮の神主守山河内(広豊)より橘家神道を学んだ[1]。また、藩校時習館教授であり、肥後国学の独自の基礎を築いた高本紫溟からは国学を学び、帆足長秋の書籍を通じて本居宣長を知る[2]。京都では浦上玉堂に琴、長野清良に有職、伊勢貞春に武家故実を学ぶ[3]。やがて高本紫溟にすすめられ、伊勢に行き本居宣長の門人となり直接教えを受けた。伊勢と肥後を往復すること4回、高弟となった[4]。また、本居宣長の古事記伝の成果に基づき、宣長と共同で、古事記本文および訓みの定本である訂正古訓古事記を編集した。

江戸にも行き塙保己一群書類従編纂に関わり、賀茂真淵門下の双璧である加藤千蔭村田春海らとも交遊した[5]万葉集をよく研究し、秀歌を選び「万葉集佳調」「万葉集佳調拾遺」などを編した。「肥後事蹟考証」「田廬集」など編著書は36冊にのぼる。文化・文政期の九州三大国学者[6]の一人[7]

「国学とは古語を解明して古事を究明し、上代の神ながらの道を明らかにする学問である」というのが持論である。門下生は多く、中島広足林桜園和田厳足らがいる[8]大正5年(1916年)に正五位が贈られた[9]。墓は、熊本市西区、本妙寺山中の花園墓地の高本紫溟の墓のそばにある。

出典・脚注

  1. ^ 熊本県立大学文学部日本語日本文学科 川平敏文編『肥後の和学者 上妻博之郷土史論集1』熊本県立大学文学部日本語日本文学研究室発行、2009、22頁
  2. ^ 鈴木喬編『熊本の人物』熊本日日新聞社、1982、108頁
  3. ^ 今関天彭『書苑 第四巻・第十号』三省堂、1940年、32頁。 
  4. ^ 熊本県教育委員会『熊本の先覚者たち』秀巧社、1968、4頁
  5. ^ 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982、610頁
  6. ^ 九州三大国学者は、肥後の長瀬真幸、豊前の渡辺重名、筑前の青柳種信
  7. ^ 福本日南『清教徒新風連』実業之日本社、1916、344頁
  8. ^ 鈴木喬編『熊本の人物』熊本日日新聞社、1982、108頁
  9. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41

参考文献

  • 加藤秀俊ほか編纂『人づくり風土記43 熊本』農山漁村文化協会、1990、204頁
  • 熊本県立大学文学部日本語日本文学科 川平敏文編『肥後の和学者 上妻博之郷土史論集1』熊本県立大学文学部日本語日本文学研究室発行、2009、20-73頁

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