青山景通
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青山景通(あおやまかげみち、1819年(文政2年) - 1891年(明治24年)12月11日)は、幕末から明治の日本の復古神道家。美濃国苗木藩の下級藩士。通称は稲吉(いなきち)。青山直通は長男、東京帝国大学の医学博士で後に男爵となった青山胤通は三男[1]。江戸で平田篤胤の門人となり、書を三好想山より学んだ。王政復古期の改革で子の直通とともに重要な役割を担った。『経済総論』の写本も行っている。
注釈
- ^ 鈴木重胤が銕胤より破門されたのは、安政5年(1858年)のことである。
出典
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 8頁。
- ^ a b c 宮地(1994)pp.257-258
- ^ a b コトバンク「青山景通」
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- 2 青山景通の概要
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