長沼路線の功罪
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フランスW杯予選前に、川淵に任命された加藤久強化委員長が加茂監督では、アジア予選を勝ち抜けないとして同監督を更迭し、後任監督をネルシーニョに決定した。当時のJFA規定では強化委員会が日本代表監督の評価を行うと明記されていた。契約交渉は最終段階に入り、残りは条件面を詰めるだけになっていたのにも関わらず、W杯誘致運動から帰国した長沼は"鶴の一声"で加茂続投を決めてしまった。さらに、その決定過程を記者会見で上手く説明出来なかったばかりか「加茂でフランスに行けなかったら辞任する」と発言したものの、加茂更迭時に自らは会長職にとどまった。更に契約交渉の最終段階で、日本代表監督契約を突然白紙撤回されたネルシーニョが"日本サッカー協会には腐ったミカンがいる"と長沼を非難したことも物議を醸し、マスメディアを大いに賑わせた。長沼が専務理事だった1984年に、当時日産自動車を率いて日の出の勢いだった関学の後輩・加茂を日本代表監督の候補に挙げながら、梯子を外した借りがあり、1992年のオフト招聘の際も、川淵強化委員長の推すオフトより加茂を抜擢したかったといわれる。また日本単独開催を目指していたW杯が、政治的妥協の結果、韓国との共催となり韓国に譲歩しすぎた事も当時極めて強い批判を受けた(だが、実際は、2002年ワールドカップの日韓共催はFIFA内の会長選挙を巡る権力闘争によって決まったのであって、共催は避けられないことであった。もし、長沼が最終的に共催の決断を下さねば、韓国の単独開催になるのは必至の情勢であった)。 これら一連の出来事により、1997年から1998年にかけ、長沼はとくに若年のジャーナリストと彼らを支持するファンからの厳しい批判にさらされ、競技場で大きなブーイングを浴びる事もあった。
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