長沼政義、下野侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/09 23:43 UTC 版)
「片角軍萱の戦い」の記事における「長沼政義、下野侵攻」の解説
明応4年(1495年)、蘆名盛高に対し松本輔豊、伊藤民部らが謀反を企てるがすぐに発覚して、鎮圧された。その後、松本輔豊らは宇都宮成綱を頼り下野国を目指し逃れた。その際、長沼政義は逃亡者を30人ほど捕らえ討ち取るなど盛高へ協力的な姿勢をとった。さらに同年、長沼政義は下野国塩原に侵攻。下野小山氏の一族橘伊勢守が拠る要害山城へ攻め込んだ。橘伊勢守は要害山城の出城である狭間城で徹底防戦するが討ち取られてしまい、橘氏は滅亡した。 塩原荘は長沼氏の祖である長沼宗政の領土でもあり長沼氏の旧領であった。政義は旧領の奪還を果たしたのであった。
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