鎌倉と京都・二つの幕府構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:49 UTC 版)
「鎌倉府」の記事における「鎌倉と京都・二つの幕府構想」の解説
建武3年(1336年)11月、建武式目制定により室町幕府が成立したとされるが、この建武式目には幕府の設置場所について、鎌倉と京都の二つの意見があったことが示されている。「本来は鎌倉であるべきだが、多数の人の意見が鎌倉以外であれば、それに従う。」とし、最終的な決着がつかないまま、まずは京都に設置することになった。 足利直義は、関東武士の支持を背景に源頼朝以来の武士の都・鎌倉を推し、足利家の筆頭家臣だった高師直は、畿内とその周辺の武士の支持を背景に京都を推していた。足利氏の幕府は、京都・室町ではなく鎌倉だった可能性もあった。 室町幕府の設置後も、足利尊氏と直義の兄弟は互いに力を合わせて幕府の基礎固めを行う。二人は将軍権力を分担し、一方が京都にあるときは、もう一方は鎌倉にあって、それぞれ京都と鎌倉の首長として政治を行った。しかし、観応の擾乱で両者は対立し、薩埵山体制を経て、室町幕府・鎌倉府体制が確立。やがて尊氏の子・義詮の京都・将軍家、および、基氏の鎌倉公方家に継承されていく。 鎌倉府には、直義による鎌倉「新幕府」構想の遺産という側面もある。
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