鈴木氏の支配
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16世紀には、足助氏も没落したと思われ、矢並(現矢並町)に拠っていた三河鈴木氏の足助郷への進出がすでに始まっていた。15世紀後半頃の人といわれる鈴木小次郎忠親が真弓山城に入城し、その後重政、越後守重直、信重、康重の5代にわたる足助鈴木氏がこの地に威をふるうことになる。足助鈴木氏は足助七城と呼ばれる城砦を築きその支配域を強固に守ろうとしたが、1525年(大永5年)には松平清康率いる二千余騎の軍勢を前に2代目惣領重政が屈膝、嫡子越後守重直と清康の姉妹である久との婚約を条件に、松平氏の麾下に入る。しかしおよそ10年後の1535年(天文4年)に森山崩れと呼ばれる不慮の事態によって清康がみまかり、足助鈴木氏は松平氏から離反、越後守重直室となっていた久を岡崎に送り返し、独立を回復する。ところが1554年(天文23年)、岡崎城を抑えていた今川氏家臣馬場幸家らが来攻、3代目惣領越後守重直は嫡子信重を人質に差し出すことで今度は今川氏の武威に下った。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元が敗死、これを機に独立傾向を強めた松平元康(のちの徳川家康)は祖父清康の果たした三河統一を再び果たすべく動きだし、1564年(永禄7年)には真弓山城を攻略、足助鈴木氏は再び松平氏の麾下に組み込まれた。1571年(元亀2年)には武田信玄による侵攻を受け、真弓山城をはじめ周辺の諸城がすべて落城の憂き目に遭う。このとき越後守重直は徳川家康の元に落ち延びたといわれ、城主を失った真弓山城には武田氏配下にあった下伊那郡の下条信氏が城代として在番、約2年後の1573年(天正元年)に松平信康によって城が奪取されるまで、足助郷は完全に武田氏の支配下にあった。武田勢が駆逐された真弓山城は旧城主の越後守重直に与えられ、足助郷も足助鈴木氏の領地として回復する。その後、4代目惣領信重は1581年(天正9年)に生じた第二次高天神城の戦いにおいて同族の小原城城主鈴木(鱸)重愛と共に奮戦し、松平勢の挙げた全首級の2割近くを献じるなど、松平氏への忠節を大いに尽くした。1590年(天正18年)、5代目惣領康重が徳川家康に従い関東に転封となったことで、真弓山城は廃城となったという。
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