鈴木氏の支配とは? わかりやすく解説

鈴木氏の支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:57 UTC 版)

足助町 (豊田市)」の記事における「鈴木氏の支配」の解説

16世紀には、足助氏没落した思われ矢並(現矢並町)に拠っていた三河鈴木氏足助郷への進出がすでに始まっていた。15世紀後半頃の人といわれる鈴木小次郎忠親が真弓山城入城しその後重政越後守重直、信重、康重の5代にわたる足助鈴木氏がこの地に威をふるうことになる。足助鈴木氏足助七城と呼ばれる城砦築きその支配域を強固に守ろうとしたが、1525年大永5年)には松平清康率い二千余騎の軍勢前に2代目惣領重政屈膝嫡子越後守直と清康姉妹である久との婚約条件に、松平氏麾下に入る。しかしおよそ10年後の1535年天文4年)に森山崩れ呼ばれる不慮事態によって清康がみまかり、足助鈴木氏松平氏から離反越後守重直室となっていた久を岡崎送り返し独立回復する。ところが1554年天文23年)、岡崎城抑えていた今川氏家馬場幸家らが来攻、3代目惣領越後守重直は嫡子信重を人質差し出すことで今度今川氏武威下った1560年永禄3年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元敗死これを機に独立傾向強めた松平元康(のちの徳川家康)は祖父清康果たした三河統一を再び果たすべく動きだし、1564年永禄7年)には真弓山城攻略足助鈴木氏は再び松平氏麾下組み込まれた。1571年元亀2年)には武田信玄による侵攻を受け、真弓山城をはじめ周辺諸城がすべて落城憂き目に遭う。このとき越後守重直は徳川家康元に落ち延びたといわれ、城主失った真弓山城には武田氏配下にあった下伊那郡下条信氏城代として在番、約2年後1573年天正元年)に松平信康によって城が奪取されるまで、足助郷は完全に武田氏支配下にあった武田勢駆逐された真弓山城は旧城主越後守直に与えられ足助郷も足助鈴木氏領地として回復するその後4代目惣領信重は1581年天正9年)に生じた第二次高天神城の戦いにおいて同族小原城城主鈴木()重愛と共に奮戦し松平勢の挙げた首級の2割近く献じるなど、松平氏への忠節大い尽くした1590年天正18年)、5代目惣領康重が徳川家康従い関東転封となったことで、真弓山城廃城となったという。

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