金持ちとラザロの話をどう解釈するか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 00:13 UTC 版)
「セカンドチャンス (キリスト教)」の記事における「金持ちとラザロの話をどう解釈するか」の解説
イエスが語った「金持ちとラザロ」(ルカの福音書16:19-31)の話の中で、利己的生き方をした金持ちが死後すぐに苦しみの場所に行き、そこで善を行おうという心を示したものの出来なかったことから、死後にセカンドチャンスはないという主張がなされることも多い。たとえば音楽グループ=ホワイト・クロスの「セカンドチャンスはない」という歌の歌詞に、こうある。「金持ちは死んで地獄(hell)の責め苦に置かれた。・・・彼はそこで、もう一度いいことをしたいと思った。一つだけでいい。地上の兄弟を助けたいと思ったのだ。しかしそれはかなわず、セカンドチャンスはなかった」 ただし、この歌詞の中で金持ちは「地獄」に行ったと言われているが、レックス・ハンバード牧師は、金持ちがいた場所は地獄ではなく、「よみ」の中の「苦しみの場所」と呼ばれる一区画であったと述べている。ビリー・グラハム牧師も、セカンドチャンスは否定したものの、金持ちは地獄ではなく「よみ」の一区画へ行ったと述べている。そのように金持ちが行った場所は「よみ」だと述べる場合であっても、欧米ではその区別は曖昧なことが多く、地獄と同じような永遠の苦しみの場所として説明されることが多い。また「死後の裁き」は死の直後にあると考える向きが強く、セカンドチャンスは否定される。 中川健一牧師は「聖書には、死んでも信じなかった人の実例も書かれています。この金持ちは、よみで大いに苦しんでいますが、悔い改めようとはせず、アブラハムに向かって、ラザロを自分の家族に送って欲しいと懇願するのみです。・・・この話から分かるのは、人の心は死んだだけでは変わらないということです」と述べ、この話を否定的にとらえ、セカンドチャンスはないとした。 一方キリスト教界では、この「金持ちとラザロ」の話を、上記のような否定的観念ではとらえない人々もいる。たとえばこう述べられている。「金持ちが行ったのは地獄ではなく、『よみ』の苦しみの場所だった。地獄では正常な精神活動ができないほど苦しみが強いのに対し、『よみ』では、たとえ『苦しみの場所』であっても会話をしたり正常な精神活動ができる程度の、懲らしめ的な苦しみである。金持ちはそこで、かつての自分の人生を悔やみ、地上の兄弟に対して愛さえ示した。兄弟を助けて欲しいという彼の思いがかなえられたとしても、彼には何の得もなかったが、彼はそう願った。彼は変わったのだ。その愛の思いは、天国から見ていたイエスに深い印象と感動を与えた。この話は、じつはたとえ話ではなく、実話である。なぜなら、イエスはたとえ話は常に『ある人』と語り、実名を用いなかったが、この話の中ではアブラハム、ラザロという実名があげられている。これは旧約時代の実話であり、天から見ていたイエスに深い印象を与えた光景だったのである。また金持ちのいた『よみ』は最終的な死後界ではなく、世の終わりまでの一時的な場所である。金持ちの願いはその時点ではかなわなかったものの、そこで彼が示した愛は、『よみ』の人々の最終的行き先を決める『最後の審判』の法廷において、神による重要な考慮事項の一つになるに違いない」 否定派は、アブラハムによって金持ちの願いがかなえられなかったことは、死後にセカンドチャンスはないことの証明だと述べる。実際、アブラハムにその願いをかなえる力はなかった。しかしそこにいたのがもしアブラハムではなく、イエスであったならばどうか、「イエスがいないならばセカンドチャンスはないかもしれないが、イエスがいるならば話はまた別になってくる。私は、セカンドチャンスがあるということを、聖書は物語っていると思う」と語る牧師もいる。
※この「金持ちとラザロの話をどう解釈するか」の解説は、「セカンドチャンス (キリスト教)」の解説の一部です。
「金持ちとラザロの話をどう解釈するか」を含む「セカンドチャンス (キリスト教)」の記事については、「セカンドチャンス (キリスト教)」の概要を参照ください。
- 金持ちとラザロの話をどう解釈するかのページへのリンク