金剛寺 (倉敷市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 23:13 UTC 版)
金剛寺(こんごうじ)は岡山県倉敷市真備町に所在する真言宗御室派の寺院。別称「桜大師」(さくらだいし)[注 1]または「桜のお大師様」(さくらのおだいしさま)[2]。
注釈
- ^ 横溝正史疎開宅で配付されている「横溝正史疎開宅 - 真備ふるさと歴史館 周辺」図に、疎開宅の西側の塀沿いの小道の行き当たり先が「桜大師」と表記されている[1]。
- ^ 北側に2、3本の柏の木が茂っていたのを背にした位置にあったため、「かしぐろの大師さん」の愛称で呼ばれて、それが通り名となった[5]。
- ^ 公称の寺ではなく、石仏を二つ安置した地蔵堂ぐらいのもので、1852年(嘉永5年)に初めて瓦屋根の本堂が造られた[5]。
- ^ 各部落に世話人を置き、寄付金を募集して境内の拡張や石段の幅を拡げるなどの整備を行った[5]。
- ^ 建物も檀徒もなく、名前だけが明細帳に残っていた[5]。
- ^ 桜大師堂の西方に廃寺「金剛寺」の遺跡があり宇名に金剛寺という地名があることから、その名前を借用した[5]。
- ^ 『苔の香 真備町外史』の「桜大師金剛寺の由来」の章に、「慶応三年(1867年)は、大繁盛した天保十二年(1842年)から二十五年目に相当するので、その記念に瓦屋一棟を増築」「明治二十年(1887年)、前堂を新築した」との記述があり[5]、毘沙門堂と薬師如来堂がこれら増築・新築された「瓦屋一棟」「前堂」に該当する可能性がある。
- ^ 横溝は『金田一耕助のモノローグ』に「(疎開宅の)すぐ背後に桜のお大師さんというのが、少し小高い丘のうえに建っており」と記載している[7]。
- ^ 『悪魔の手毬唄』に、部落の名前が「桜」(横溝正史疎開宅の旧住所「岡田村字桜」の「桜」)で「桜のお大師さんちゅうのんがあるもんじゃけに」[8]、「桜のお大師さんというのはその部落のいちばん奥まったところにあり、二十段ばかりの石段のうえに、ちんまりとしたお堂と堂守りの住居らしい家の屋根が、二、三本の椎の大木の葉がくれに、ひっそりとすわっているのがすぐ眼の下に望見される」と記述されている[9]。
出典
- ^ a b 「横溝正史疎開宅 - 真備ふるさと歴史館 周辺」図。
- ^ a b c 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、530-531頁。"下道郡霊場八十八か所 十二、金剛寺"。
- ^ “町内の寺院 岡田地区”. わが町真備町. 2023年4月19日閲覧。
- ^ “岡山県倉敷市の『金剛寺』 『金剛寺 (岡山県倉敷市真備町岡田1541番地)』の航空写真”. 「お寺メイト」【仏教寺院探索サイト】. 2023年4月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 粕谷米夫『苔の香 真備町外史』六甲出版、1983年7月、77-80頁。"桜大師金剛寺の由来"。
- ^ a b c “金剛寺”. 日本の神社・寺院の検索サイト 八百万の神. 2023年4月19日閲覧。
- ^ 横溝正史『金田一耕助のモノローグ』角川書店〈角川文庫〉、1993年11月10日、25頁。
- ^ 角川文庫『悪魔の手毬唄』第二部 二番目のすずめのいうことにゃ「婿あらそい」。
- ^ 角川文庫『悪魔の手毬唄』第二部 二番目のすずめのいうことにゃ「活弁青柳史郎」。
- ^ a b 角川書店 編『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』角川書店、2012年5月25日、278頁。"金田一耕助はなお消えず 横溝正史(初出:1979年9月到知出版刊行『私の書斎III』)"。
- ^ a b 角川書店 編『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』角川書店、2012年5月25日、280頁。"金田一耕助はなお消えず 横溝正史(初出:1979年9月到知出版刊行『私の書斎III』)"。
- ^ a b c “岡山県倉敷市真備町金剛寺殺人放火事件”. ASKAの事件簿 (2014年3月5日). 2023年5月1日閲覧。
- 1 金剛寺 (倉敷市)とは
- 2 金剛寺 (倉敷市)の概要
- 3 歴史
- 4 『悪魔の手毬唄』と桜大師
- 5 脚注
- 金剛寺 (倉敷市)のページへのリンク