重田徳松とは? わかりやすく解説

重田徳松

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/13 13:26 UTC 版)

重田 徳松
しげた とくまつ
生誕 (1891-01-12) 1891年1月12日
日本千葉県
死没 (1959-12-09) 1959年12月9日(68歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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重田 徳松(しげた とくまつ、1891年明治24年〉1月12日 - 1959年昭和34年〉12月9日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

千葉県出身。重田留五郎の三男として生まれる。千葉中学校卒を経て、1912年明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、1923年大正12年)11月、陸軍大学校(第35期)を卒業。近衛野戦砲兵連隊中隊長となる。

1925年(大正14年)5月、参謀本部付勤務となり、第8師団参謀陸軍技術本部付、独立山砲兵第1連隊大隊長、東京湾要塞参謀などを経て、1932年昭和7年)8月、砲兵中佐に昇進。1933年(昭和8年)8月、野砲兵第10連隊付となり、第2師団参謀、野砲兵第10連隊長を歴任し、1936年(昭和11年)8月、砲兵大佐に進級。1938年(昭和13年)3月、第6師団参謀長に就任し日中戦争に出征。1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に昇進し野戦重砲兵第1旅団長となる。

1940年(昭和15年)3月、砲兵監部付となり、陸軍野戦砲兵学校幹事、同校長を歴任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将となり太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)3月、第35師団長に親補され中国に出征した。1943年(昭和18年)3月、砲兵監に就任。 1944年(昭和19年)7月、第72師団長に親補された[1]1945年(昭和20年)4月、第52軍司令官に発令され、千葉県佐倉本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。同年12月、予備役に編入された。

1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[2]

栄典

脚注

  1. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、384頁。ISBN 978-4-487-74409-1 
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
  3. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。




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