酷寒や男装しても子を負ふて
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評 言 |
作者は昭和18年、つらい境遇から逃れるため、当時国策として進められた満蒙開拓青少年義勇軍の結婚相手である「大陸の花嫁」に応募し、満州へと渡った。22歳の時である。しかし思ってもみなかった悲惨な状況に直面することになるのだ。 過酷な人生は『大陸の花嫁』に綴られ平成13年に自費出版される。この優れた手記は平成16年に岩波現代文庫として出版された。 作者は若い頃から独学で俳句や短歌を作り、自分の気持ちを表現してきた。帰国後、知人に誘われ加藤楸邨主宰「寒雷」に投句する。それらの句は句集『満州追憶』に纏められ、『大陸の花嫁』にも収録された。掲句はその中の一句である。 現代の感覚では「酷寒」で「男装」といえば男物の外套等を思い浮かべるだろう。だがこの句の場面は敗戦時の満州だ。武装解除の後、ソ連軍と満州国軍の兵隊たちに次々に襲撃された。そのため、物品は盗まれ、防寒服等はなかったのではないだろうか。収容所は零下なのに母子の寝具が麻袋(マータイ)一枚だけだったと同書には記されている。女性は、匪賊の暴力を恐れ、短髪にして男装したのだが、赤子を背負っていたし、すぐに女性だとわかるほどだっただろう。しかし、その時はどんなことをしてでも娘といっしょに祖国に帰りたかった。その執念が伝わってくる。 命からがら故郷に戻ってきたが、2歳半の娘は栄養失調で亡くなってしまう。 作者は91歳の現在でもなお、戦争の悲惨さ、残酷さ、愚かさを伝えようとしている。今年(2012年)からは、帰国後誕生した娘さんと大学生のお孫さん、三世代の協力でTwitterでも発信している。 作者の文章や俳句を読んで、戦争の愚かさを教わるばかりでなく、どんなに悲惨な環境になっても生きていけるのではないかという希望と勇気を頂いた。 井筒紀久枝さんのHP |
評 者 |
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備 考 |
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