鄭経の時代とは? わかりやすく解説

鄭経の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:09 UTC 版)

陳永華」の記事における「鄭経の時代」の解説

1662年6月鄭成功が世を去ると、鄭経は、延平王(中国語版)を継ぎ陳永華を諮議参軍中国語版)に任命した。このとき、台湾の黄昭は鄭成功の弟である鄭襲(中国語版)を代理延平王と招討大将軍擁立した鄭経陳永華一同引き連れた台湾侵攻し、黄昭の軍隊撃破しこの内乱を治めたのである1663年鄭経廈門戻った後、鄭泰と黃昭が前に個人的な関係があったのが判り彼に対す疑心生じ鄭泰逮捕しなければならない思った陳永華は、鄭経献策している。 鄭経台湾に行く前に、「金廈総制」と彫った官印鄭泰送り、「金門廈門防備任せる」としたのである鄭泰はこの印章をいただくと、廈門お礼言上しに来たが、鄭経は、鄭泰禁固にしている。 1664年鄭経金門廈門で、清とオランダ連合軍敗れ銅山島にまで退いた。このとき、人心不安になり、清朝投降する者が多く出た鄭経周辺有力な者まで、清に降伏するよう勧めたのである。しかし、陳永華と洪旭(中国語版)が、次のように説得した。「投降した人の多くは皆奴僕商人の類である。明鄭官員僭称して清朝厚遇を受けるつもりでしかない万一投降した後、このような待遇受けて理想とはならない。これは、笑い話みたいなものだ」。鄭経はこれを聞いて投降考え捨て台湾退去し、国の政治をすべて、陳永華の処理に任せたのである1674年鄭経は、三藩の乱に応じて海を渡り西征行った時、陳永華東寧中国語版)の総制を命じ銃後の守り固めさせたのである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}永華為儒雅轉粟餽餉,軍無缺乏。及經歸後,頗事偷息,而馮錫範、劉國軒忌之。三十四年春三月,請解兵。經不聽,既而許之,以所部歸國軒。 —連横(中国語版)『台湾通史』 馮錫範同鄭經回臺,見永把握,而諸事方正敢爲;且又屢受微譏,心實忌之,姑爲陽好,陰與國軒謀,軒教錫範解除兵權以許之。範許其策善。一日,會永公所,範曰:『自愧扈駕西征寸功俱無,歸來仍居其位,殊覺赧顏!諸凡檢點明白,當即啟辭,杜門優游,以終餘年。』永以爲實,歸來即上啟乞休,經不允;再加力陳,經意未決。範乘間啟曰:『復甫勤勞數載,形色已焦!今欲乞休靜攝,情出於真,宜俯從之!但其所部將士,可交武平伯爲是。』經依範議,允永告辭,將所轄部旅交劉國軒,軒啟辭者再,經命至三,軒始統永軍,而錫範仍任侍衛如故。方悟爲範所賣,悔無及也,心大悒怏。 —江日昇台湾外記1680年6月鄭経台湾帰ると、陳永華は、権力握った馮錫範(中国語版)と劉国軒(中国語版)に排斥された。馮錫範に騙され陳永華は綜制(中国語版)と勇衛を辞任し龍湖巌(現在の台南市六甲区赤山龍湖巌)に引退した1680年7月世を去った。後に天興州(中国語版赤山堡大潭山(現在の台南市柳営区果毅里)に葬られた。後に清朝彼の骸を泉州改葬し、一部分を元の所に残した

※この「鄭経の時代」の解説は、「陳永華」の解説の一部です。
「鄭経の時代」を含む「陳永華」の記事については、「陳永華」の概要を参照ください。

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