鄭経の時代
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1662年6月、鄭成功が世を去ると、鄭経は、延平王(中国語版)を継ぎ、陳永華を諮議参軍(中国語版)に任命した。このとき、台湾の黄昭は鄭成功の弟である鄭襲(中国語版)を代理延平王と招討大将軍に擁立した。鄭経は陳永華一同を引き連れた台湾に侵攻し、黄昭の軍隊を撃破し、この内乱を治めたのである。 1663年、鄭経が廈門に戻った後、鄭泰と黃昭が前に個人的な関係があったのが判り、彼に対する疑心が生じ、鄭泰を逮捕しなければならないと思った。陳永華は、鄭経に献策している。 鄭経が台湾に行く前に、「金廈総制」と彫った官印を鄭泰に送り、「金門、廈門の防備を任せる」としたのである。鄭泰はこの印章をいただくと、廈門にお礼を言上しに来たが、鄭経は、鄭泰を禁固にしている。 1664年、鄭経は金門、廈門で、清とオランダの連合軍に敗れ、銅山島にまで退いた。このとき、人心が不安になり、清朝に投降する者が多く出た。鄭経周辺の有力な者まで、清に降伏するよう勧めたのである。しかし、陳永華と洪旭(中国語版)が、次のように説得した。「投降した人の多くは皆奴僕や商人の類である。明鄭の官員と僭称して清朝の厚遇を受けるつもりでしかない。万一投降した後、このような待遇を受けても理想とはならない。これは、笑い話みたいなものだ」。鄭経はこれを聞いて、投降の考えを捨て、台湾に退去し、国の政治をすべて、陳永華の処理に任せたのである。 1674年、鄭経は、三藩の乱に応じて、海を渡り、西征を行った時、陳永華に東寧(中国語版)の総制を命じ、銃後の守りを固めさせたのである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}永華為政儒雅轉粟餽餉,軍無缺乏。及經歸後,頗事偷息,而馮錫範、劉國軒忌之。三十四年春三月,請解兵。經不聽,既而許之,以所部歸國軒。 —連横(中国語版)『台湾通史』 馮錫範同鄭經回臺,見永華把握重權,而諸事方正敢爲;且又屢受微譏,心實忌之,姑爲陽好,陰與國軒謀,軒教錫範解除兵權以許之。範許其策善。一日,會永華於公所,範曰:『自愧扈駕西征,寸功俱無,歸來仍居其位,殊覺赧顏!諸凡檢點明白,當即啟辭,杜門優游,以終餘年。』永華信以爲實,歸來即上啟乞休,經不允;華再加力陳,經意未決。範乘間啟曰:『復甫勤勞數載,形色已焦!今欲乞休靜攝,情出於真,宜俯從之!但其所部將士,可交武平伯爲是。』經依範議,允永華告辭,將所轄部旅交劉國軒,軒啟辭者再,經命至三,軒始統永華軍,而錫範仍任侍衛如故。華方悟爲範所賣,悔無及也,心大悒怏。 —江日昇『台湾外記』 1680年6月、鄭経は台湾に帰ると、陳永華は、権力を握った馮錫範(中国語版)と劉国軒(中国語版)に排斥された。馮錫範に騙され、陳永華は綜制(中国語版)と勇衛を辞任し、龍湖巌(現在の台南市六甲区赤山龍湖巌)に引退した。1680年7月、世を去った。後に天興州(中国語版)赤山堡大潭山(現在の台南市柳営区果毅里)に葬られた。後に清朝は彼の骸を泉州に改葬し、一部分を元の所に残した。
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