那智山と西国三十三所寺院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 22:56 UTC 版)
「社寺参詣曼荼羅」の記事における「那智山と西国三十三所寺院」の解説
参詣曼荼羅についての通説的理解は、現存する150例のうちでも抜きん出た36例を数え、研究も進んでいる那智参詣曼荼羅をモデルとしたものであり、作成主体と使用者のあり方についても同様である。熊野那智山の一山組織は、在地領主層を出自とする本来の正式の構成員である社家と、正式の構成員ではないが勧進活動を請け負うことを期待されて後に定着した本願からなり、七本願・七ツ穀屋などと呼ばれる後者は、15世紀末以降に堂舎を構えて定着する。那智では作成主体と使用者は本願で一致し、他の三十三所に属する寺院では、清水寺参詣曼荼羅を蔵する清水寺でも同様に作成主体と使用者が一致する。ともに、本願が霊場内に構えた堂舎が描かれ、本願がそれぞれ分掌するところの縁起、説話、伝説、あるいは職掌と合致する重要な場を描いており、本願としての自己主張が込められている。 紀三井寺参詣曼荼羅は、かつて使用者であった穀屋の後裔である穀屋寺に伝来している。しかし、紀三井寺の本坊護国院は、本来は16世紀末にさかのぼる本願であって、他の寺社における寺家・社家と本願との関係に単純に比定することは難しく、穀屋に属する比丘尼が、本寺たる熊野本願中を通じて作成されたものを所持していたと推測されている。粉河寺参詣曼荼羅は2点が伝来し、それぞれ16世紀末以後および18世紀初頭以後の作と解されている。両者には堂舎の描写に相違があり、前者で大きく描かれた十穀坊が後者では数ある建造物のひとつに過ぎないものとして描かれている。粉河寺の勧進活動は15世紀末から後半にさかのぼる時期には十穀坊によって担われていたが、後に、学侶に相当する寺家衆と行人に相当する行人方が「惣分」組織を形成して取って代わるという寺内組織の変化を見ており、描写の相違はこうした変化に即したものであった。また、江戸幕府の規制により勧進活動を許可なく行い得なくなったことを前提とし、紀州藩からの財政的保護・援助を得ることを目指したことが背景にある。
※この「那智山と西国三十三所寺院」の解説は、「社寺参詣曼荼羅」の解説の一部です。
「那智山と西国三十三所寺院」を含む「社寺参詣曼荼羅」の記事については、「社寺参詣曼荼羅」の概要を参照ください。
- 那智山と西国三十三所寺院のページへのリンク