追試に失敗した山本鼎の自由画教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:28 UTC 版)
「キミ子方式」の記事における「追試に失敗した山本鼎の自由画教育」の解説
山本は自由画教育の現場での処理について質問を受けるたびに、「未だ十分精密に答えることのできないのを遺憾とするが、じつはそれらの場合場合に応ずる処理は、その役目に当たる教育家自身が研究してもらいたいのである。私は正しい原則を示したつもりだ。それを有機的に施行する任務は教場のパトロンたる人々(つまり現場の教師)の上にあるのだと考えていただきたい」と述べている。 山本自身は「子どもの目と手で自由に描かせよう」と主張していても、実際の自分の授業では、かなり細かく丁寧に技術指導をしていた。その一方で「児童を自然の沃野に放牧させよ」と著書には書いた。当時の普通の教師の多くは「子どもに自由に絵を描かせよう」という教育論に賛成しても、実際にはどうやって指導したらいいかは分からなかった。山本の理念は「それをどうやって授業の中で展開すればいいか」という具体的な方法論を提示していなかった。そのため一部の学校で優れた実践が行われたが、多くの一般教員には山本の理想の実現は困難だった。 山本鼎の時代は大正デモクラシーのもとで、明治時代の「旧教育」に対する「新教育」が脚光を浴びていた時代だった。しかし、当時の「新教育」の主張の大部分は「スローガンを掲げただけで終わってしまう」ものだった。
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