追訴の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
駕籠訴吟味の判決が出ることなく一揆勢と藩側との対立状態が続いていることについて、一揆勢の中で懸念する声が出るようになり、宝暦7年12月26日(1758年2月4日)、鮎走村甚左衛門、那比村久助が追訴を行うために江戸に向かった。宝暦8年(1758年)1月、両名は江戸に着いて、駕籠訴の後も弾圧が止まることがない上に、藩側は駕籠訴は取り下げられたとの虚偽の話を広めるありさまであり、早く駕籠訴の訴えを聞き届けていただきたいとの内容の訴状を町奉行所に提出する追訴を行ったが、町奉行側は訴状を受け取ることなく門前払いされた。 かねてから郡上の一揆勢が利用していた公事宿である神田橋本町の秩父屋半七宅に宿泊していた鮎走村甚左衛門、那比村久助の両名は、追訴が門前払いされ意気消沈していた。この様子を見た秩父屋は同情して、これまでも郡上農民の訴状作成に協力していた公事師島村良仙の協力を改めて仰ぐよう助言した。鮎走村甚左衛門、那比村久助の両名は島村良仙に会い、協力を要請したところ、宝暦8年(1758年)2月上旬、島村は偽造した謀書を両名に渡した。その後の経過ははっきりしない点があるが、那比村久助は逃亡し、鮎走村甚左衛門は郡上に戻って藩側に謀書を提出したところ、郡上藩側に拘束されたと考えられる。後の評定所での判決では、偽の書状を郡上藩側に提出したことをとがめられ、鮎走村甚左衛門と公事師島村良仙は重追放とされた。
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