追訴の実行
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江戸に出訴を行った農民たちからの連絡がないため、宝暦5年10月下旬、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の2名が新たに江戸に派遣された。二名は宝暦5年10月29日(1755年12月2日)、江戸に到着し、豊島町森田屋藤右衛門宅に宿を定めた。剣村藤次郎、栃洞村清兵衛はさっそく金森屋敷に向かい、40名の農民代表の消息について探りを入れてみたが全く手がかりがつかめなかったため、40名が郡上藩によって監禁されているものと判断し、郡上藩に改めて訴えを行うことは危険性が高いため、公事師であった医師の島村良仙の協力で新たに訴状を作成した上で、藩主金森頼錦の弟である井上遠江守の邸に訴状を提出した。 訴えを受けた井上家側は、翌宝暦5年11月1日(1755年12月3日)、家老の井上源太夫が郡上藩邸に出向き、訴状を役人に見せたが郡上藩側は全く取り合おうとはしなかった。かえって郡上から新たに上訴を行う農民がやって来たことを知った藩側は、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛が泊まる豊島町森田屋藤右衛門宅に足軽を差し向け捕えようとした。突然、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の消息を尋ねる郡上藩足軽が現れた森田屋藤右衛門宅では、藤右衛門がとっさに2人とも不在である旨伝えたものの、足軽からは2人の引渡しを命じられた。善後策を協議した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛は、1人が江戸に残りもう1人が江戸の状況を伝えるために郡上に戻ることにしたが、大きな危険が予想される江戸に残る役割を、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛ともに自分が担うといって聞かなかった。結局2人のうち年長の栃洞村清兵衛が江戸に残り、剣村藤次郎が郡上に戻ることになった。栃洞村清兵衛はまもなく郡上藩側に捕えられ、江戸金森藩邸に監禁された。清兵衛は取調べが行われることも無く重病になっても監禁され続け、結局牢死した。後に評定所で郡上一揆の吟味が行われた際に、郡上藩役人の手落ちの1つとして栃洞村清兵衛の牢死が取り上げられた。また郡上に戻った剣村藤次郎はその後も一揆の中核の1人として活躍を続け、宝暦8年(1758年)に行われた目安箱への箱訴を行った農民の1人となった。
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