追訴の実行とは? わかりやすく解説

追訴の実行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「追訴の実行」の解説

江戸出訴行った農民たちから連絡がないため、宝暦5年10月下旬剣村藤次郎洞村清兵衛の2名が新たに江戸派遣された。二名宝暦5年10月29日1755年12月2日)、江戸到着し豊島町森田右衛門宅に宿を定めた剣村藤次郎洞村清兵衛はさっそく金森屋敷向かい40名の農民代表の消息について探りを入れてみたが全く手がかりがつかめなかったため、40名が郡上藩によって監禁されているものと判断し郡上藩改め訴えを行うことは危険性が高いため、公事師であった医師島村良仙の協力新たに訴状作成した上で藩主金森頼錦の弟である井上遠江守の邸に訴状提出した訴え受けた井上家側は、翌宝暦5年11月1日1755年12月3日)、家老井上源太夫郡上藩邸に出向き訴状役人見せた郡上藩側は全く取り合おうとはしなかった。かえって郡上から新たに上訴を行う農民がやって来たことを知った藩側は、剣村藤次郎洞村清兵衛泊まる豊島町森田右衛門宅に足軽差し向け捕えようとした。突然、剣村藤次郎洞村清兵衛消息尋ね郡上藩足軽現れ森田右衛門宅では、右衛門とっさに2人とも不在である旨伝えたものの、足軽からは2人引渡し命じられた。善後策協議した剣村藤次郎洞村清兵衛は、1人江戸残りもう1人江戸状況伝えるために郡上に戻ることにしたが、大きな危険が予想される江戸に残る役割を、剣村藤次郎洞村清兵衛ともに自分が担うといって聞かなかった。結局2人のうち年長洞村清兵衛江戸残り剣村藤次郎郡上に戻ることになった洞村清兵衛はまもなく郡上藩側に捕えられ、江戸金森藩邸に監禁された。清兵衛取調べが行われることも無く重病になって監禁され続け結局牢死した。後に評定所郡上一揆吟味が行われた際に、郡上藩役人の手落ち1つとして洞村清兵衛牢死取り上げられた。また郡上戻った剣村藤次郎その後一揆中核1人として活躍続け宝暦8年1758年)に行われた目安箱への箱訴行った農民1人となった

※この「追訴の実行」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「追訴の実行」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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