近代のエディルネ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 22:01 UTC 版)
19世紀に入ると、バルカン情勢の悪化と帝国の軍事的衰退のために、エディルネも直接の戦火にさらされる最前線となった。数度にわたった露土戦争において、1829年と1878年にエディルネはロシア軍に占領され、軍の駐屯に利用された宮殿は荒廃した。 さらに、1912年に始まる第一次バルカン戦争でブルガリア軍の攻撃を受け、エディルネを含む東トラキア地方は占領され、1913年5月に結ばれた休戦によってブルガリアの領土に割譲されることが決まった。しかしブルガリアの領土拡大をめぐってギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアがブルガリアと敵対したことから6月に始まった第二次バルカン戦争でオスマン帝国軍が奪還し、エディルネは8月の講和条約によって再びオスマン帝国領に定められた。この戦争においてブルガリア・オスマン両国の争奪の的となったエディルネは甚大な被害を受け、トルコ人の報復を恐れたブルガリア人たちはブルガリア領に立ち去っていった。 続く第一次世界大戦後の1920年に結ばれたセーヴル条約で、エディルネを含む東トラキア地方はギリシャへの割譲が定められたが、トルコ人の祖国解放戦争に敗北したギリシャはトラキアの取得を放棄し、トルコ共和国への編入が確定した。この際、住民交換協定が結ばれてトルコ領に住むギリシャ人はギリシャへの強制移住を余儀なくされ、エディルネは完全なトルコ人の町となった。
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