踊り子デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:20 UTC 版)
1960年(昭和35年)、奥山劇場の社長に、ストリッパーへの転向を勧められた。すでに30歳を過ぎ、2人の子持ちの身で人前で裸になることには抵抗があった。しかし、踊りの師匠としての収入は1か月1人2千円であったところが、ストリップの舞台に立って20日間踊れば約3万円の収入に繋がると聞かされた。これは当時の大卒初任給の倍に値する額で、養育費のために舞台に立つことを決心。芸名の「東八千代」は、「『東』の字は末広がりで演技良い」「開くといえば『八」も良い」点から名付けた。 翌1961年(昭和36年)、ストリッパーとしてデビュー。当時はストリップとはいえ乳房をわずかに見せるだけで、それ以上の露出はご法度であった。しかし羞恥心を隠すために酒を煽って舞台に立ち、着物を脱いだ拍子に帯に足を取られて転倒、鬘が外れて吹っ飛び、大股を開いて陰部をさらけ出してしまい、観客の爆笑を浴びる。大恥の出来事であったが、「面白い踊り子がいる」と話題を呼ぶきっかけになった。自身にとっても、これが舞台度胸に繋がった。 踊り子としての現役時代は地方巡業、いわゆるドサ回りが中心だった。同年にはストリップ一座を率いて北海道公演を行ない、札幌市、旭川市、函館市などを回った。
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