路線就航、運航停止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:32 UTC 版)
初年は10月28日までの運航予定期間のうち、丘珠線は午前中1往復であったこともあり利用率は34.2 %と低調だった。旭川線は乗客がまったく集まらず、期間中4往復のみの運航で利用客は10名に止まり翌年付で廃止された。4つのコースが設定された遊覧飛行は好調で836名が利用した。翌1967年(昭和42年)は運航時間を調整し、札幌日帰り利用も可能とするダイヤを設定し利用率が向上した。1968年(昭和43年)は運航開始が5月に早まりさらに向上した。1969年(昭和44年)は機材を旅客定員9名のセスナ402Aに変更し、所要時間を50分に短縮した。7月から9月までの夏期は午前と午後の2往復化が実現した。この年は紋別市の助成により、運賃がこれまでの4,800円から国鉄グリーン車並の4,300円へ値下げが行われ、利用率は64.3 %となったが路線収支の改善には至らなかった。横浜訓盲学院は同年7月に航空事業部を分離独立させ横浜航空を設立し、引き続き運航にあたった。 1970年(昭和45年)と1971年(昭和46年)も夏期2往復化が行われたが、運賃値上げの影響で利用率は低迷した。1972年(昭和47年)は、5月1日より11月までの予定で片道女満別経由の三角運航を取り止め、1日1往復のスケジュールで運航を開始した。同年5月30日、紋別発丘珠行が樺戸郡月形町の山中に墜落する横浜航空そよかぜ号墜落事故が発生し、乗員2名と乗客8名の計10名全員が犠牲となった。横浜航空はこの事故をきっかけに運航停止に追い込まれ、紋別空港は路線がなくなった。
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