路線対立と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 22:45 UTC 版)
青年会を中心に勢力を拡大していた「飛田給派」は、1982年には政治活動に消極的な姿勢を見せた本部派の和田一夫教団理事長を辞任に追い込むなどの勢いを見せていた。その次に理事長に就任した徳久克己は飛田給道場を長く担当していたこともあり飛田給派の人間であると見られていたが、翌1983年に生長の家理事会は突如として生長の家政治連合の活動停止を表明、さらに1985年には教団が日本を守る国民会議(今の日本会議の前身の一つで財界人・文化人・学者主体)からも脱退し、飛田給派の拠点であった「生長の家青年局」も解体された。これを受けて飛田給派の中には伊藤哲夫のように教団幹部でありながら職を辞して自営シンクタンク「日本政策研究センター」を作るなど、教団と距離を置くものが出始めた。
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