赤坂城の戦いとは? わかりやすく解説

赤坂城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「赤坂城の戦い」の解説

詳細は「赤坂城の戦い」を参照 9月笠置山の戦い敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城下赤坂城)にて幕府軍戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍当初一日決戦をつけることができると判断しすぐさま攻撃開始した。 だが、正成は寡兵ながらもその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢応戦し、その上城外の塀で奇襲仕掛けた。敵が堀に手を掛ければ、城壁四方吊るされていた偽りの塀を切って落として敵兵退け、上から大木大石投げ落とした。これに対し、敵が用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍城攻め手詰まり陥った新井孝重は、一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃仕掛けたことに注目している。単なる悪党蜂起であるならばこれほど大軍勢の投入有り得ず、正成の尋常ならざる実力証左であるとしている。正成はかつて幕府反逆した武士次々討伐した合戦名人であり、鎌倉明らかに正成を大いなる脅威認識していたと考えられる。 しかし、赤坂城急造の城であるため、長期戦不可能と考えた楠木正成は、同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち幕府軍に城を奪わせた。鎌倉幕府赤坂城大穴見分けつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族思い込んで同年11月関東帰陣した。 赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地与えられた。一方、正成は赤坂城落城後、しばらく行方くらました同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉与えられた。

※この「赤坂城の戦い」の解説は、「楠木正成」の解説の一部です。
「赤坂城の戦い」を含む「楠木正成」の記事については、「楠木正成」の概要を参照ください。

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