諸隊解散令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
同日、遊撃隊鎮静軍が諸隊へ出発した。藩政府軍は伊佐の諸隊については恭順済みと認識しており、進撃路に陣取る伊佐の諸隊へ使者を送り、鎮静部隊が通行する際は道を明けるよう伝えた。諸隊は藩政府軍の命令を拒否し、諸隊は萩に赴き陳情を行う用意があり、逆に鎮静部隊が道を開けるべきだと回答した。藩の命令を拒否する諸隊を怪しんだ鎮静軍は使者を送り、諸隊に武器を返納し解散するよう命じた。 公爵山縣有朋伝によると、この時、伊佐の諸隊幹部は再度衆議を行い、馬関の高杉晋作に同調して決起することを決めたという。ただし山縣は即座の戦闘開始に反対し、藩政府へ諸隊を武装解除すると偽り、武装解除する見返りとして、諸隊が度々提出していた武備恭順の建白書を承認するよう藩政府に要求することを決めた。もちろん実際は武装解除せず、建白書が受け入れられなかった場合は、藩政府軍と戦端を開く決意をしていたという。 また諸隊幹部は藩の使者に対して、一度にすべての隊の武装解除を行うと動揺が大きいため、順次武装解除を進め1月3日までに諸隊を解散することを伝え、3日までに提出中の建白書への回答を行うよう伝言した。諸隊側の資料には、解隊を了承した為、使者は笑顔で帰ったとの記述がある。ただし藩政府側の資料には、復命した使者は、諸隊の顔には怒気があり不穏な空気であったと記述がある。 諸隊が俗論派の藩政府に恭順して伊佐に移った17日以降、ニ卿の萩行拒否、鎮静のための大軍派遣、7人の正義派高官の処刑、最後の正義派家老の切腹、また時期不明なれども萩に在していた南園隊が逃亡して伊佐の諸隊と合流するなど、正義派にとってボルテージの上がる出来事が頻発したのは間違いなく、複数の資料にある通り諸隊解散の命令の出た12月28日に、高杉とともに立ち上がることを決心したのは事実と思われる。 12月29日、征長軍総督府は吉川監物へ、正式に解兵令を伝えた。戸川ら総督府内の幕臣が広島を離れ江戸へ帰国する。 同日、再び根来が五卿に拝謁し渡海を促す。 同日、長府藩三好新造は藩政府に対し、御楯隊が功山寺を離れ、諸隊と合流したことを報告した。また遊撃隊を追討する際は、奇兵隊が在陣している美祢街道を通るべきでない事を合わせて報告している。
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