読書と翻訳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
小村は、自分の仕事は後世の人間が判断すべきであるとして日記を一切を付けなかった。また、秘密主義を貫いたため、小村の手紙もほとんど残っていない。ポーツマス条約交渉でも満洲善後条約交渉でも、小村はさんざん叩かれたが、一切自己弁護をしていない。ただし、小村が東京開成学校時代に書いた英文の自叙伝 "My Autobiography" が1997年にアメリカの大学で見つかっており、開成学校の英語教師だったグリフィスはこれについて18歳の青年が書いたとは思えないほどの深い内容だと褒めている。 小村はまた、たいへんな読書家であり、ロシアに駐在していた時には薄暗い室内で膨大な量の書物を読み漁っため視力が大幅に衰え、医者からはこれ以上目を使い続けると失明するとまで警告されたが、それでも小村の学習意欲は衰えず、読書を止めることは終生なかった。 小村は40歳を過ぎても公私共に報われず、翻訳の内職をして生計を支えていたが、小村の運が開けたきっかけはこの内職にあった。翻訳という作業は、諸分野における多様な事象について勉強する機会を翻訳者にもたらす。上述のとおり、翻訳で得た紡績に関する知識を陸奥宗光の前で披露する機会があり、陸奥は小村の博識に感服したが、小村は陸奥に「私は何でも知っています。ここにいる原敬君ほど私を用いてくれるなら、私も相当のことを致します」と返答して陸奥を驚かせている。
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