記事を疑問とする主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:07 UTC 版)
「百人斬り競争」の記事における「記事を疑問とする主張」の解説
第1報:会見は無錫ではなく常州。浅海一男記者は“無錫に一番乗り”という、11月27日発の記事を書いている。2少尉が属す冨山大隊は26日、すでに常州(無錫の先)に向け追撃に移っており、無錫での会見は不可能だった。29日(か30日)常州で会見に加わった佐藤振壽は、“競争”は未だ始まっていなかったと証言している。一方浅海記者は、さかのぼって無錫から常州までに「25名を斬」った、「刃こぼれが」した、等と記事に書いている。なお名誉棄損訴訟の判決は、「聞き取った内容を記事にした」という記者の供述に信頼を置く。結果がこの第1報であり2,3,4報である。 第2報:当時当事者が書いた『大野日記』に、2少尉が属す冨山大隊が丹陽に入城した形跡はない。 第3報:冨山大隊が属す9連隊は句容を迂回した。5日浅海記者はまだ丹陽にいて、句容にいない(否定論の第3報参照)。 第4報:11日向井少尉に会ったと記事に書いた鈴木二郎記者は、『抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。・・・いぶり出された敵を掃蕩していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは』と1972年の取材に答えている。「紫金山(488m)攻撃」の戦況に限れば、鈴木記者は間違っていない。その後公文書や第1次資料が大量に発掘され、精緻な研究が進む。『南京戦史(1989年)』他によると、冨山大隊が戦ったのは、紫金山麓ではあるが「本街道地区の戦闘」で、両者には明確な線引きがあった。「中山陵を眼下に見下す」地点にも行っていない。9日(9連隊は10日)から始まったこの戦闘は11日も、「益々敵の射撃猛烈」で上から終日射撃され孤立ないしは苦戦して「戦況は進展しなかった」。第3大隊が当初目指す73(m)高地も未だ攻略されていない。 一方の浅海記者は、直接の戦場でなかった「孫文陵前の公道あたり」で「両少尉の訪問を受けた」と語る。その場には『向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼく(鈴木)の4人がいた』という。『記事は浅海さんが主に執筆したもの』とは東京裁判の検事に、『どちらが直接執筆したかは忘れました』は「週刊新潮」に、鈴木記者が各々答えている。記事の写真は常州中山門を背に佐藤振壽が11月29日(か30日)に撮影したもので、紫金山麓と合致しない門と分かる部分はカットされて掲載された。 なお判決は、記事として具体的には唯一、第4報だけに言及し「冨山大隊がおよそ紫金山付近で活動していたことすらなかったものとまでは認められない」ことを一理由として、新聞報道は完全な虚偽ではなかったとしている。
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