計画開始時の問題点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:56 UTC 版)
「動力近代化計画」の記事における「計画開始時の問題点」の解説
1955年(昭和30年)に実施された仙山線での交流電化試験が予想以上に好調だったため、1957年(昭和32年)から始まった北陸本線の電化計画は急遽交流方式へ変更された。1960年(昭和35年)から始まった動力近代化計画では、電化は交流方式を原則とするが、直流との境界は適正に定めると明記された。交流電化は実用化検討中に開始されたため、技術的には不十分な点も多く、1957年(昭和32年)の北陸本線の交流電化のED70形では初期故障が多発し、1959年(昭和34年)の東北本線黒磯-福島間の交流電化のED71形でも運転の安定化までにかなりの期間を要した。交流用車両において必要とされる整流器の本命とされたシリコン整流器が本格的に採用されたのは1961年(昭和36年)に製造を開始したEF70形からで、動力近代化計画策定時点ではまだ存在していなかった。 またディーゼル機関車についても当時の本線用主力機は電気式のDF50形が中心であったが、蒸気機関車D51形よりも非力であるため強力な後継機が必要であった。本命となったDD51形の登場は1962年(昭和37年)であり、このため、本計画では電化区間と非電化区間、直流区間と交流区間を適正に設定するために必要なコスト計算の根拠があいまいであったとされる。その影響もあってか、1961年(昭和36年)から1964年(昭和39年)に電化された山陽本線(倉敷 - 下関間)では全区間直流方式とされた。
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