製作から公開まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 05:54 UTC 版)
映画製作には莫大な資金が必要で、大掛かりな撮影となった。 トンネル工事のシーンが多いが、再現セットが愛知県豊川市の熊谷組の工場内に作成された。出水を再現する420トンの水タンクもあった。出水事故があり、石原裕次郎他数人が負傷した。出水事故の原因は、撮影が1日遅れたことにより、水タンクから出た水を一旦溜め置く切羽のコンクリートの硬度が増したために、切羽が想定以上の大量の水を溜めてしまい、その後壊れて一気に水が流れ出たことによる。この時の撮影は、切羽(トンネル掘削の最先端箇所)の奥から、多量の水が噴出する見せ場であった。水槽のゲートが開かれると、10秒で420トンの水が流れ出し、役者もスタッフも本気で逃げた。三船は、水が噴出する直前に、大声で「でかいぞ」と叫び、裕次郎らと走るが、そのときの必死の姿をカメラがとらえていたので、撮影は成功した。監督の熊井は、もし、三船が恐怖のあまり立ちすくんでいたら、撮影も失敗して死傷者も出たかもしれないと回想している[要出典]。大洪水の中でも仁王立ちとなって演技をした三船の姿が、30年以上たった今も瞼に焼き付いていると語った。岩岡班労務者を演じた大浜詩郎は、オープンセットがトタン張りであったため、照明機材の熱も入ることもありセット内は蒸し風呂のように暑く、撮影期間中は連日点滴を打ちながら撮影に臨んでいた。大浜は後年のインタビューで「まだ若かったから乗り切ることが出来た。本作の苦労を思えばどんな撮影も辛くない」と述べている。1年以上の撮影期間を経て、1968年2月に公開された。
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