裁定逆転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 00:56 UTC 版)
騒動も治まったかに見えた27日、後白河は突然、明雲を「大衆を制止せず、肩入れした」という理由で、高倉天皇護持僧の役から外した。28日には裁定が逆転し、成親が召還され、事件処理に当たった時忠・信範が「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」(『百錬抄』)の罪により解官・配流される。事態の展開に兼実は「天魔の所為なり」と唖然としている。 30日、成親が権中納言に還任、翌嘉応2年(1170年)正月5日には時忠の後任として検非違使別当に就任し「世以て耳目を驚す。未曽有なり」(『玉葉』正月6日条)と周囲を驚愕させた。この措置に延暦寺が黙っているはずもなく、7日、13日には大衆の再入洛の噂が流れ、後白河は検非違使に命じて西坂本を警固させるなど、院庁と延暦寺の抗争が再燃することになった。 福原で事態の悪化を憂慮していた平清盛は、13日に頼盛、14日に重盛を呼び寄せて状況を報告させると、17日に上洛した。同日、成親は検非違使別当の辞任を申し出る。21日には六波羅館に「幾多なるを知らず」というほどの武士が集まり、「近日上下奔波し、更に以て安堵せず」という情勢が続いた。 22日、法住寺殿で再度の公卿議定が開かれ、延暦寺の要求する成親配流、時忠・信範召還について話し合われたが結論は出ず、27日に僧綱が再度、処分を訴える。これに対して後白河は、要求は認めるものの「自今以後台山の訴訟、一切沙汰あるべからず」と通告したため、僧綱は言い返すこともできず退出した(『玉葉』30日条)。2月1日、成親配流と時忠・信範召還を認めるという内意が山上に伝えられたが、4日には藤原邦綱が兼実邸を訪れて「成親配流の宣下はいまだになく、また変わるのではないか」と語っている。6日にようやく、成親解官、時忠・信範召還の宣下があり、事件は終息する。
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