藤原氏長者へ
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9月26日、立腹した忠実は摂関家の正邸東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。さらに翌仁平元年(1151年)正月3日、忠実は忠通に譲渡していた藤原師実・藤原師通の日記正本を没収し、これも頼長に与えた(『台記』久安7年正月3日条)。更に忠実の宇治殿領の内、忠通に譲渡していた京極殿領も奪還没収した上で、これも頼長に与えられたが、ただし預所の補任などは引き続き忠実が行うなど、京極殿領の事実上の支配権は忠実の手中にあった。また忠通の同母姉・泰子(高陽院)までもが異母弟・頼長の後ろ盾となり、所有する摂関家の拠点の一つ土御門殿を頼長に譲った。この状態でしかし鳥羽法皇は先の入内問題と同じように曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留めたまま頼長に内覧の宣旨を下す。ここに兄弟で関白と内覧が並立するという異常事態となった。ただしこの内覧宣下については、近衛天皇の疎遠に悩まされた鳥羽法皇は、その原因として天皇を補佐する忠通が原因であると疑って、頼長を立てることで忠通を牽制させる動機があった、とする説も出されている。 忠通の子・慈円の著作『愚管抄』の記すところによると、かつて忠通に息子として育てられた恩を忘れられない頼長は、宮中で忠通に出会った際に丁重に会釈する等礼を尽くすことで関係改善の糸口を探ったが、父と兄の頑なな態度の前に(周囲の同情は集めたものの)失敗に終わっている。
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