薩摩焼の興隆・パリ万国への出展
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島津重豪の時代には苗代川で製造された苗代川焼に対して厳密な検査が行われ、合格したものは参勤交代で上京の際に徳川家や天皇、諸大名に進上し、薩摩焼の名が広がった。 薩摩藩家老であった調所広郷は天保4年(1832年)に島津斉興の命によって藩政改革を命ぜられ、薩摩藩の財政基盤の立て直しを行った薩摩藩の天保改革の責任者として知られ、この改革によって調所は多くの領民を苦しめたと評価されている。しかし、苗代川は例外であり調所は弘化(1845年)から作職と呼ばれる農作と陶業の負担によって疲弊していた苗代川に対して「苗代川御取救」と呼ばれる政策を実施した。 調所は苗代川に常駐していた村田堂元に命じて窯の藩費による建設などを通して薩摩焼の増産や苗代川村民の生活改善に尽くした。このことから苗代川の住民は調所と村田を称えて来迎院の僧侶墓地に招魂碑を建立した。 また、磁器を製造するために南京皿山窯やウチコク窯が建設された。これは磁器窯の製造によって藩の財政再建を図った産業育成のひとつであったとみられる。また、平佐(現在の薩摩川内市)の平佐窯から陶工が派遣されており、南京皿山窯の開窯から技術交流があったとみられる。 嘉永元年(1848年)には山舞楽ケ岡と呼ばれる山に石碑が建立され、苗代川の人々が遠い故国の祖霊を祀るため望郷の宴や歌舞を行った場所であると記されている。 慶応3年(1867年)にフランスのパリで開かれたパリ万国博覧会に出展することとなった薩摩藩は苗代川の朴正官に対して出品用の錦手大花瓶の制作を命じた。出展した薩摩焼はパリ万国博覧会で好評であり、世界的な薩摩焼ブームによって脚光を浴び、その後薩摩焼の海外輸出が盛んにおこなわれるようになった。
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