落成第1号と受注第1号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/26 14:17 UTC 版)
「ゼネラルモーターズ・ディーゼル」の記事における「落成第1号と受注第1号」の解説
GMDはオンタリオ州ロンドン郊外に目をつけ、1950年、208エーカー(842,000平方メートル)の敷地に工場を開設した。隣接した工場で、バスやTerex社のダンプカー(1965年〜1980年)、軍用車を製造した。1日1両のペースで製造し、受注分よりも多く製造することもしばしばであった。のちに日産1.5両となった。ちなみにアメリカのラグランジュ工場では日産6両であった。 落成第1号はトロント・ハミルトン・バッファロー鉄道(TH&B)の71である。4バージョンあるGP7型ロードスイッチャー(入れ換えと短距離の列車組成用)である。しかし、受注第1号はCPRのFP7AのAユニット(運転台のある車両)10両であった。どちらも1,500馬力(1,100kW)である。両者は同時に同じ場所で製造され、TH&Bの71・72が8月25日に納入された。FP7Aは4028・4029が9月14日にCPRに納入され、続いて11月11日に納入された。 TH&Bの価格は71は191,712ドルであった。ALCOがニューヨーク州スケネクタディー工場で製造した1,000馬力(750kW)スイッチャーは税を含めて115,000ドルであり、CPR向けの4-6-2蒸気機関車は88,000ドルである。ディーゼル機関車の運用コストは蒸気機関車よりはるかに低いが、初期コストは多額であった。使用回数の多さが、そのコスト構造のカギであった。その点、操車場での入れ換えは、待機時間が長いという点でコスト削減効果が高かったため、初期のディーゼル機関車導入の目的はスイッチャーとしてのものであった。また、本線向けディーゼル機関車は、スイッチャーにくらべて信頼性でいまひとつであり、ひとたび遠方で故障すると列車の運行への影響が大きかった。ディーゼル機関車を旅客列車牽引に充当することは旅客の口コミで宣伝効果が高く、また貨物列車牽引に充当することはコスト効果が高かったが、信頼性が低かったため、どちらにも積極的に充当しようとは思わなかった。 GMDはカナダ政府の外国補助事業のために多くの輸出用機関車を製造した。また、液体式ディーゼル機関車や電気機関車も試作したが、それらは市場に受け入れられなかった。
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