落日のアンゲロス王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:27 UTC 版)
「アンゲロス王朝」の記事における「落日のアンゲロス王朝」の解説
イサキオス2世は前の皇帝・アンドロニコス1世の強権的な政治を否定し、政治の緩和に努めた。しかしこれが逆に政治の弛緩を招いた。さらにイサキオス自身が奢侈を好んだために帝国財政の破綻を招いた。対外的にもブルガリア帝国の独立やキプロス島の喪失など失政を重ね、しだいに周囲からの不満を招くこととなる。このため1195年、イサキオス2世の弟・アレクシオス3世アンゲロスが反乱を起こし、兄のイサキオス2世は廃位・去勢され、幽閉された。そしてアレクシオス3世自らがアンゲロス王朝の第2代皇帝として即位したのである。 ところが、このアレクシオス3世は兄以上の暗愚な皇帝で、帝国財政再建のために歴代皇帝の墓所を暴いてその金品を強奪したり、兄が貿易的な利害から厚い親交を持っていたヴェネツィア共和国との関係を断交して、その敵対国と親交を深めるなど、暴政に次ぐ暴政を行なったのである。このため、アレクシオス3世に対する不満が各地から湧き上がった。そして1203年、先のイサキオス2世廃立で国外に逃亡していたイサキオス2世の子・アレクシオス4世アンゲロスがヴェネツィアに集結していた十字軍を莫大な資金を与えることを条件として味方として取り込み、帝位奪還を目指してコンスタンティノープルに侵攻してくる。失政・暴政を繰り返したアレクシオス3世に味方する者はなく、アレクシオス3世は小アジアに亡命を余儀なくされる。アレクシオス4世は幽閉されていた父を助け出して復位させ、自らも第3代皇帝として即位し、父と共に共同統治を行いながら、王朝の再建を目指した。 しかし皮肉なことに、アレクシオス4世が父の救出と帝位奪還を目指して十字軍を莫大な資金を餌に味方にしたことは、その資金供出のために国民に重税という大きな負担を与えることとなった。これに対して貴族や国民は大いに反発し、1204年にイサキオス2世・アレクシオス4世親子は、貴族や国民の支持を得た皇族のアレクシオス5世ドゥーカスによって殺害されてしまった。
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