茶道坊主から藩主側近へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:25 UTC 版)
文化10年(1812年)7月、調所は小納戸に任命され、茶道から離れこれまでの坊主頭から髪を蓄えるようになる。小納戸とは藩主側役の下で働く職務であり、茶道頭からの配転は稀なことであった。また同時に笑悦という名から笑左衛門と改名した。そして2年後の文化12年(1814年)7月には小納戸頭取兼御用御取次見習に昇格する。小納戸頭取は家老からの直接指揮を仰ぐいわば家臣の中の上級職であり、御用御取次見習は藩主側役と同格の職務であった。つまり調所は藩政の要職への足掛かりを掴んだのである。 調所が茶道から離れ、藩主の側役同等の職務に就くとともに藩政の要職就任の足掛かりを掴む頃には、藩主は重豪の子の斉宣から孫の斉興へと交代していた。斉宣は藩の財政再建や重豪時代の緩んだ士風の粛正を目指して藩政改革に取り組んだが、父、重豪の逆鱗に触れ、結局改革は頓挫して斉宣は隠居して斉興が新藩主となっていた。そのような中で重豪は藩政を後見し、藩の実権を握った。 茶道坊主から藩主側近となった文化末年、調所は再婚する。出世の足掛かりを掴み、家格も上昇した調所の再婚相手は富裕な藩士の内藤家出身であった。再婚した調所について妻は、生活が派手でよく大酒を飲み家計を意に介さず、米やお金が不足がちであったため、妻の実家の内藤家からしばしば財政的支援を受けていたと述懐している。
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