茶道具の下賜とゆるし茶湯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 20:55 UTC 版)
「御茶湯御政道」の記事における「茶道具の下賜とゆるし茶湯」の解説
やがて信長は蒐集した茶道具を家臣や豪商へ下賜するようになる。竹本は、信長が政権の安定を図った天正4年から10年の間に頻繁に下賜されたと指摘している。特に織田信忠に対し、天正3年11月28日に家督と尾張美濃2国を譲る一方でこの時点では茶道具を譲渡せず、天正5年に戦功があったのちに同12月28日に名物を下げ渡している点に注目し、茶道具の下賜に政治的な意図があったと指摘している。 また滝川一益は、天正10年(1582年)に甲州征伐の恩賞として上野・信濃の郡と関東管領の職を与えられたが、下賜されると願っていた名物の珠光小茄子が与えられなかったため「茶の湯の冥加はつき候」と書状に記した。桑田は、こうした記述から名物茶器には一国一城、あるいは関東管領の職よりも価値があったと指摘した。 以上のように信長から御道具を拝領した人物でも、必ずしもそれを用いた茶会の開催を許された訳ではないと考えられる。また、秀吉が御道具を拝領(天正4年)してから茶会が許される(天正6年)まで時間差があるように、一体した行為ではない。竹本は、織田政権下では、貢献があった家臣に「御道具」が下賜され、さらに功績があったものに「御茶之湯」が許される2段構成であったとし、茶会の開催は天正6年正月に信忠が開いた事を契機として功績のあった家臣に許可するようになったとしている。竹本は、信長所蔵の名物を下賜し、それを用いた茶会を開催を許可することを「ゆるし茶湯」と表現している。 こうした「御茶之湯」は家臣にとっては信長政権の中枢にいることを誇示する目的があるが、一方では信長の茶会同様に信長政権の権威を示す行為と考えられる。一例として明智光秀や野前長前らは博多商人の島井宗室を招いて茶会を開いており、竹本はその目的を、信長の権威を示し九州商人を懐柔し、その背後にいる九州大名を威圧することであったとしている。
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