茶道用菓子への転身と様々な経営努力
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「川端道喜」の記事における「茶道用菓子への転身と様々な経営努力」の解説
十二代道喜は宮内省への嘆願を繰り返すとともに、新しい時代への対応に努力していた。幕末から明治初年にかけて、裏千家の宗匠は十一代玄々斎であった。玄々斎は慶応2年(1866年)正月の禁中献茶の折、宮中から拝領した「菱葩」に着目した。皇室から許可を貰った上で、玄々斎は「菱葩」を十二代道喜とともに改良を重ね、初釜で使用される菱葩餅となった。菱葩餅は、正月の菓子として人気となり、各地で作られるようになった。東京奠都後、長年の宮廷との縁が切れた後、十二代道喜はこれまで宮中に納入していた餅類を、菱葩餅のように茶席で用いられるようにアレンジして、茶道に食い込んでいく。 禁裏御用から茶席で用いられる菓子へと商売を変更する過程で、川端道喜の主力商品であったちまきにも大きな変化が起きた。明治維新後、京都における茶道も宮廷や公家といった大口の商売相手を失い、生き残り策を模索していた。そのような中で茶菓子に求める条件が厳しくなった。これまでの川端道喜製の主なちまきは、上新粉を原料とした団子系の白ちまきであった。しかし団子系のちまきは噛みにくくのど越しが悪いとのことで茶席では敬遠されるようになった。茶席で採用されたのは葛ちまきであり、結果として白ちまきは祇園の一力茶屋からの特別注文などの場合を除き、作られないようになり、戦後は全く作られなくなる。 川端道喜は数軒の和菓子店と共同で「御菓子券」の発行も行った。御菓子券とは商品券のようなもので、御菓子券を販売することによって川端道喜などの和菓子屋は手っ取り早く現金収入を得ることが出来た。しかし券を持参した客には商品を引き渡さねばならないのに、和菓子店の中には商品を渡さずに夜逃げをする事態が発生し、約10年ほどで御菓子券の販売は中止を余儀なくされる。 なお十二代道喜は、店の経営収入だけでは生計の維持が困難であったため、川端道喜の敷地内に6軒の借家を建設し、家賃収入を得るようにした。また戦前期、後継者である嗣子は銀行員として勤務する等、外に働きに出て生計の足しにしていた。
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