茶道坊主時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:25 UTC 版)
最下級の城下士である小姓組の中には無高無屋敷の上に勤め先が無い者も多く、そのような小姓組は日々の生活に困窮していた。しかし養子に行った分家筋の調所家の当主は、代々茶道坊主として藩庁に勤務していた。そのため勤め先が無い小姓組より生活的には楽であったと推定されている。調所家の養子となった翌年の寛政元年(1789年)、養父が亡くなった。寛政2年(1790年)には養父の跡を継いで表坊主となり、養父の名を引き継いで調所清悦を名乗るようになった。なお年月的にははっきりしないものの、調所家の養子になった頃から家職である表坊主を継ぐまでの間に、本名として恒篤を名乗るようになったと推定されている。 表坊主となった調所は寛政10年(1798年)までの8年間、鹿児島で勤務した。表坊主として鹿児島で勤務していた駆け出し時代の調所について伝わっている話は少ない。わずかに伝えられている話によれば、近所に住む老女が自分が思っていることよりも行き届いた内容になるので、いつも息子への手紙の代筆を依頼していたといい、物事にこだわらない男気がある性格で、鹿児島城下でも名が知られるほど相撲が強かった。また表坊主時代は大変な勉強家で、午前2時とか4時まで書きものをしており、大工のことは大工に、商売のことは商人に、農業のことは農民から詳しく聞いていたため、殿からお尋ねがあった時には的確な返答が出来たとも伝えられている。
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