自由への歩みツアー第1弾
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「ジャスティン・ダート・ジュニア」の記事における「自由への歩みツアー第1弾」の解説
ダートが全米障害者評議会副議長となってから、ダートとパートナーのヨシコ・ダートは全米を回るツアーに乗り出した。自費で全米を回るなかで、他の活動家や障害を持つ人々と会合の場を持った。ダート夫妻が全州を巡ったツアーは夫妻にも訪れた人々にも意味深い事業となった。ツアーを行った時、アクセシビリティやユニバーサルデザインは、大きな都市や比較的大規模の自治体でしか発展していなかった。そのため、ダート夫妻はツアーを完遂するために、ダートや同伴者の車椅子を受け入れられる交通機関や宿を探す必要が生じた。実際行き先の全ての街において、難なく彼にサービスを提供できる宿が見つかるわけではなかった。ツアーには、障害者運動に関わる活動家、コミュニティに属する同志、友人などが同伴した。ダートが出会った多くの人々にとって、障害を持つ立場として政治に何を求めるかという質問を受けたのは画期的なことだった。ツアーでの聞き取りを通じて、ダートらの評議会は障害を持つ人に対する旧態依然とした差別をなくすため新たな市民法が必要であるという国家政策の草稿を作り上げた。これが次第にADAに形を変えていくこととなる。 1986年、レーガン大統領によりリハビリテーション・サービス局の理事に任命される。当局はアメリカ合衆国教育省の下部政府組織であり、「1973年リハビリテーション法」の執行を担った。しかし、ダートの当局での職務は議会聴聞において当局を、古臭い温情主義の石頭と批判したことで終了を迎えた。ダートは辞令を出されたが、障害者の権利に関する政策をめぐって連邦レベルでさえも活動を続けた。1988年、メジャー・オーウェンスの設立した障害者の権利・エンパワメント国会対策委員会の共同議長に任命された。そして1989年から1993年にかけて障害者雇用委員会の委員長を務めた。
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