脱出完了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:07 UTC 版)
「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の記事における「脱出完了」の解説
大雪、少ない補給、そして一度は完全包囲されたにも関わらず、第1装甲軍は滞りなく突破作戦を遂行できた。ソ芬戦争で多くのソ連軍部隊を壊滅させたモッティ戦術の罠に独軍が引っかかることは無かったのだ。脱走者もほとんど出ず、部隊は絶えず集団で移動を続け、規律も維持された。これはスターリングラードの戦い、コルスン包囲戦での混乱した状況とは大違いであった。4月5日までに南北両部隊の前衛はストリパ川(Strypa River)へ到着、ブチャチ(Buczacz)の近郊で第6軍の部隊と合流、さらにハウサー率いるSS第II装甲軍団の前衛部隊とも合流した。2週間以上の激戦、悪天候、そして補給品の欠如という状況にも関わらず、第1装甲軍は損失を最小限に抑えつつ、降伏または殲滅をどうにかして逃れた。第1装甲軍は再び戦線に戻され、ドニエストルとブロディの町の間に落ち着いた。マンシュタインの敏速な思考とフーベの作戦計画、能力により、将兵200,000名がスターリングラードの再現を免れた。しかし第一装甲軍は組織としての形は残していたが、装備と言えるのは個人携行可能な軽火器程度のもので、それ以上の大型装備はほとんどが放棄され、例えば装甲車両は45両しか残っていなかった。このため脱出の成功と将兵の損失の少なさにも関わらず、第1装甲軍は機械化部隊としての行動は不可能となり、完全な再編成を必要としていた。 カメネツ・ポリドスキー包囲戦は、部隊が包囲されたとき、全滅を如何にして避けるかという例題として今日、各国の陸軍士官学校で研究されている。
※この「脱出完了」の解説は、「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の解説の一部です。
「脱出完了」を含む「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の記事については、「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の概要を参照ください。
- 脱出完了のページへのリンク