聖都への到達とは? わかりやすく解説

聖都への到達

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:17 UTC 版)

エルサレム攻囲戦 (1099年)」の記事における「聖都への到達」の解説

スンニ派テュルク系セルジューク朝パレスチナシリア争奪していたエジプトシーア派王朝ファーティマ朝は、対セルジューク朝同盟を結ぶため十字軍と和平交渉をすべく、アンティオキアアルカ包囲する十字軍陣営再三使者送ってシリア分割占領などを持ちかけていた。その間1098年夏、ファーティマ朝アンティオキア陥落によるセルジューク朝弱体化乗じセルジューク朝系のアルトゥク家からエルサレム市を奪還している。しかし十字軍はあくまでエルサレムへの進軍主張しファーティマ朝申し入れ無視したファーティマ朝エルサレム司令官であったイフティハール・アッ=ダウラ(Iftikhar ad-Daula)はパレスチナへの進軍再開した十字軍に不安を抱き十字軍呼応する恐れのあるキリスト教徒市民追放郊外井戸十字軍使わせないための毒物投入前年攻囲戦により破壊され城壁修理食料備蓄などを行っている。 5月13日十字軍のうちレーモン率い一団トリポリ到着し、市の支配者ジャラール・アル=ムルクは馬や食糧などを与えて十字軍送り出した年代記『ゲスタ・フランコルム』(Gesta Francorum, 『フランク人事蹟』、著者の名は不明によれば、彼はファーティマ朝からエルサレム取り返してくれたらキリスト教徒改宗してもよいとまで言ったという。十字軍海岸沿いに進み5月19日ベイルート5月23日ティール歓待を受けながら南下し、ナフル・アル=カラブの川)を越えてついにファーティマ朝領内入ったヤッファから内陸折れた後、6月3日には住民退散し無人となったラムラ入った十字軍はここでエルサレムに入る前にラムラ近くリッダ(Lydda, 聖書ではロード生まれ聖人で、十字軍内でも人気高かった聖ゲオルギウス記念し当地聖ゲオルギウス聖堂カトリックラムラリッダ司教座立てている。一方内陸を進むゴドフロワは6月6日タンクレードガストンベツレヘム占領するよう指示しタンクレードは自らの軍旗征服したベツレヘム生誕教会掲げた。 こうして6月7日十字軍はついにエルサレム到達した兵士らの多くは、長い戦いの旅の末にようやく見ることのできた聖都涙したという。

※この「聖都への到達」の解説は、「エルサレム攻囲戦 (1099年)」の解説の一部です。
「聖都への到達」を含む「エルサレム攻囲戦 (1099年)」の記事については、「エルサレム攻囲戦 (1099年)」の概要を参照ください。

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