義貞の奮戦・官軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:42 UTC 版)
「湊川の戦い」の記事における「義貞の奮戦・官軍の撤退」の解説
しかし、足利方との兵力差は歴然であり、義貞ら宮方が命がけで戦っても戦況を覆すことはできなかった。新田軍は敗北し、残っていた5千余騎の軍勢は生田の森の東から丹波路に逃がれた。足利方はこれを急追し、義貞は味方を京へと逃がすために後方に下がり、大将みずから殿軍を務めた。 殿軍を務める義貞を足利方は激しく攻撃し、義貞は乗っていた馬が矢を射られて負傷しても求塚の上に降り、味方からの乗り換えの馬を待ちながら戦った。義貞は足利方に包囲されたが、足利方の兵は義貞の気迫に押されて近寄れなかったため、遠巻きにして矢を射た。このとき、義貞は源満仲の代から伝わる源氏重代の宝刀、鬼切、鬼丸の二振りの太刀を左右の手に持ち、それらを振るって奮戦した。『太平記』によると、義貞は16本の矢を落としたとされ、その様子を「其有様、譬(いわ)ば四天王、須弥の四方に居して同時に放つ矢を、捷疾鬼走廻て、未其矢の大海に不落著前に、四の矢を取て返らんも角やと覚許也」と評している。 やがて、義貞の窮地を見た配下の小山田高家が駆けつけ、自身の馬を義貞に渡して徒歩になり、敵兵を防いで義貞の命を救い、その間に義貞は味方の軍勢に合流して難を逃れた。高家は秩父平氏・小山田氏の系譜を引く武将と見られ、建武3年3月に播磨で刈田狼藉を行い軍令違反に問われていたが義貞に赦免され、その恩義から義貞の身代わりになったという。ただし、この逸話は『太平記』古本には見られず、後世の加筆である可能性が考えられている。 官軍総大将である義貞は残兵を纏めて6千騎で京へと帰還し、京の人々は攻めてくる足利方の軍勢に慌てふためいた。朝廷では官軍敗北の場合は東坂本(比叡山)へ臨幸することが決まっていたので、27日に後醍醐天皇は三種の神器とともに京を離れた。義貞や脇屋義助ら新田一族もその護衛として、後醍醐帝の臨幸に同行した。
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