義資死後と子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 17:33 UTC 版)
同年12月には、この事件の責任を負わされた父の安田義定が所有していた遠江国の所領が没収され、遠江国守護職も剥奪される。翌年の8月には、その義定も謀反の疑いをかけられて梟首となった。この時期には他の甲斐源氏の一族も次々と粛清されており、元暦2年(1184年)には一条忠頼、翌文治元年(1185年)には秋山光朝も殺害され、殺害されぬまでも軟禁状態に置かれた者、後難を恐れて逃亡を図った者も多い。一連の粛清は甲斐・信濃を根拠とする源氏一族の弱体化が狙いであり、これより甲斐・信濃の源氏一族は頼朝の支配下に編入されることとなった。 子孫は後に、大江氏に仕え、居住していた常陸国粟屋の地名を取って粟屋氏を称した。大江氏の移住に従って後に安芸国に移り住み、後に毛利家中で重きを成した。安芸分郡守護武田氏が若狭守護を兼ねた際に若狭に移住した一族がおり、若狭武田氏の重臣となった。
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