義親追討の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 14:05 UTC 版)
清和源氏研究の奥富敬之によれば、当時は既に白河法皇の院政期に入っており、院と対立する摂関家の武力として仕えていた清和源氏の中の河内源氏は、白河法皇の陰謀により勢力を削がれ、衰退してゆく(「白河院政の黒い手」『清和源氏の全家系』第二巻、新人物往来社)。 義親の父・源義家に対しては後三年の役を私闘と見なして恩賞を与えず、義家が所有していた荘園を没収したうえ、新たに義家への土地の寄進も禁じられた(以上の説は安田元久の説であり、近年疑問視されている。源義家の項を参照)。そのため義親が対馬守に任じられたのも、都に近い河内国を本拠地とし、東国を傘下にした河内源氏を、勝手の異なる西国の国司とすることで失敗を期待したものと思われる。特に義親を朝廷に告発した大江匡房が白河院の近臣であったことなどからも、院の謀略が伺える。
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