繆斌処刑の意味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 23:46 UTC 版)
日本敗戦後、中国では日本軍民に対する戦犯裁判とは別に、中国人の「漢奸(民族の裏切り者、売国奴)」を摘発して「漢奸裁判」を行い、汪兆銘政権の要人はその多くが銃殺刑に処せられた。繆斌もまた、軍統により逮捕されている。繆は獄中で『私の対日工作(原題「我的対日工作」)』を執筆して弁明しているが、1946年4月3日より江蘇高等法院で審理が開始され、わずか5日後の8日に敵国通謀の罪(いわゆる「漢奸」の罪)で死刑判決が言い渡されている。処刑は同年5月21日のことであり、「漢奸1号」としての死刑であった。判決から死刑執行までのスピードの不自然なまでの速さについては、単なる「漢奸」としての処断以外にも目的があったのではないかという見方がある。たとえば歴史学者劉傑や伝記作家鄭仁佳は、東京裁判において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した蔣介石による「口封じ」だったのではないかと推論している。繆斌工作が明るみに出れば、蔣介石がカイロ会談で徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見し、自身の政治的立場が危うくなるわけである。この推論が正しいとすれば、繆を通じての和平は蔣介石の真意だったことになる。
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