緑営水師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 15:12 UTC 版)
1651年、清朝は中国沿岸部を制圧すると、沿岸の防衛と治安維持のために江南・浙江・福建・広東の四水師(水師は艦隊に相当する)を編成した。しかし1683年に台湾の明朝残党が投降すると、清朝はあまり海に興味を持たなくなり、海外との接触自体が制限された(海禁、広東体制も参照)。このため、19世紀に西洋列強が再び東アジアに進出して来るまで、水師の組織・装備は近代化しなかった。 アヘン戦争(1840-1842)時、清朝水師は600艘近い軍船(ジャンク)と沿岸砲台から構成されていた。二世紀の間変化の無かったその装備では、蒸気船を有する西洋の近代海軍には歯が立たなかった。だがこの緑営水師の人員は、後に編成される四つの近代水師の母体になった。 アヘン戦争で清朝は香港を失い、広州・廈門・福州・寧波・上海の五港を開港した。続く(北京までが侵略された)アロー戦争(1856-1860)で清朝は開港地周辺を除く中国沿岸の治安維持の義務を負ったが、それは緑営水師の能力を超えるようになっていた。一方で、自国の負担を少しでも軽くしたい列強、特にイギリスの要求は強くなる一方で、ここに清朝も蒸気船を有する近代海軍を整備する必要に迫られるようになった。
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