結婚と追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 04:47 UTC 版)
「ブランカ・デ・ボルボーン (1339-1361)」の記事における「結婚と追放」の解説
1353年1月、ブランカはついにバルセロナへ入り、2月にバリャドリッドへ到着した。しかし母国フランスは不誠実であった。クリスマスまでの支払いとされた25,000フローリンは到着していなかったのである。ペドロは結婚の延期を決めた。当時既にペドロは、マリア・デ・パディーリャを寵愛し、彼女との間に長女をもうけていた 多くの歴史家は、この延期の理由を「マリア・デ・パディーリャへの愛のために延期した」と解釈しているが、真実を導き出すのは非常に困難である。なぜなら、教会の高位聖職者がブランカとの結婚を認めた1年後に、ペドロはフアナ・デ・カストロと結婚式を挙げているのである。支払いの遅延が結婚を遅らせたというのが近いとみられる。 ついに、王母マリアと宰相の圧力を受けて、ペドロ1世は結婚式に同意した。1353年6月3日、ブランカとペドロ1世の結婚式がバリャドリッドで行われた。しかし、結婚式の2日後には王はブランカを捨て、二度と会おうとはしなかった。 母国フランスの他人行儀な振る舞い以前に多くの定説や伝説が取り沙汰されたが(カスティーリャへ入国後にブランカ一行を出迎えた、王の異母兄弟ファドリケと恋仲になった、愛妾マリア・デ・パディーリャが王の愛情を独占していたため、など)、確かなことは、王とインノケンティウス6世が書簡をやりとりしていたことである。教皇は法的にも教会法でも妻であるブランカを迎えて「正しい生活」を送るようペドロ1世に説いたが、王は彼女との結婚は続けられないと突っぱねたのだった。 一度は捨てられたブランカが、ペドロ1世に対して「私たちは既に夫婦であり、私は何も失う物はないのです。」と言ったとされている。フランス王が政略結婚の保証として用意する持参金支払いを遅らせていることにペドロは怒り、ブランカに与えるはずであった所領を決して与えなかった。フランス王側も、彼女の高価な嫁入り道具の返還を求めなかった。 王妃を捨てたことが、カスティーリャ国内に血生臭い内戦を引き起こすきっかけとなった。王側に対して、異母兄エンリケ側には見返りを望んだ大勢の貴族、アラゴン王子でペドロ1世やエンリケの従兄であるフェルナンドとフアンの兄弟も加わった。そのうえ宰相アルブルケルケ、ペドロ1世の母マリアまでエンリケと組した。ペドロ1世はエンリケ側の捕虜となった。
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