結城合戦とは? わかりやすく解説

結城合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:36 UTC 版)

南総里見八犬伝」の記事における「結城合戦」の解説

八犬伝冒頭配されている合戦永享10年1438年)の永享の乱滅ぼされ鎌倉公方足利持氏遺児・春王丸安王丸を奉じ関東諸将が、永享12年1440年結城氏朝居城結城城拠って室町幕府叛旗翻した。翌嘉吉元年1441年4月16日結城方は敗れ捕らえられた春王丸安王丸も京都連行され途中5月16日将軍足利義教の命により美濃国垂井宿金蓮寺殺害されたというのが史実である。

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「結城合戦」を含む「南総里見八犬伝」の記事については、「南総里見八犬伝」の概要を参照ください。


結城合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 04:59 UTC 版)

水谷氏」の記事における「結城合戦」の解説

永享9年1437年)、鎌倉公方足利持氏関東管領の上憲実との対立深まった結果永享の乱が起こる。憲実に救援請われ室町幕府6代将軍足利義教討伐軍を派遣、持氏は自害した乱後永享12年1440年)、義教その実子を新たな鎌倉公方として下向させようとすると、これに反発した持氏残党が持氏の遺児である春王丸安王丸を奉じて常陸中郡木所城(現・茨城県桜川市)で挙兵。春王丸らは結城氏朝頼り小栗伊佐の庄(いずれも現在の茨城県筑西市経由結城城(現・茨城県結城市)に入る。突然の入城動揺した結城家家老たちは春王丸らの受け入れ反対、髻を落として出家のうえ城を出た唯一水谷伊勢守水谷時氏)だけは「乱を見て捨てるは弓矢の道ならず、力無くとも討ち死にするより道あるまい」として城に留まり主君とともに死する道を選んだという。一方義教は春王丸らの挙兵に対して結城城大軍派遣いわゆる結城合戦が勃発する結城城長く幕府方攻撃持ちこたえたが、永享13年1441年4月落城安王丸と春王丸捕らえられた後に殺され水谷伊勢守は氏朝やその子持朝とともに討死した。 なお、結城合戦で実験かけられた首のなかに、水谷姓の水谷大炊助の首がみえる(『永享記』『永享後記』)。

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