結城合戦
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『八犬伝』冒頭に配されている合戦。永享10年(1438年)の永享の乱で滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児・春王丸と安王丸を奉じた関東の諸将が、永享12年(1440年)結城氏朝の居城結城城に拠って室町幕府に叛旗を翻した。翌嘉吉元年(1441年)4月16日、結城方は敗れ、捕らえられた春王丸と安王丸も京都に連行される途中の5月16日、将軍足利義教の命により美濃国垂井宿の金蓮寺で殺害されたというのが史実である。
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結城合戦
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永享9年(1437年)、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実との対立が深まった結果、永享の乱が起こる。憲実に救援を請われた室町幕府6代将軍足利義教は討伐軍を派遣、持氏は自害した。乱後の永享12年(1440年)、義教がその実子を新たな鎌倉公方として下向させようとすると、これに反発した持氏残党が持氏の遺児である春王丸、安王丸を奉じて常陸中郡木所城(現・茨城県桜川市)で挙兵。春王丸らは結城氏朝を頼り、小栗、伊佐の庄(いずれも現在の茨城県筑西市)経由で結城城(現・茨城県結城市)に入る。突然の入城に動揺した結城家家老たちは春王丸らの受け入れに反対、髻を落として出家のうえ城を出た。 唯一、水谷伊勢守(水谷時氏)だけは「乱を見て捨てるは弓矢の道ならず、力無くとも討ち死にするより道はあるまい」として城に留まり、主君とともに死する道を選んだという。一方、義教は春王丸らの挙兵に対して結城城に大軍を派遣、いわゆる結城合戦が勃発する。結城城は長く幕府方の攻撃に持ちこたえたが、永享13年(1441年)4月に落城。安王丸と春王丸は捕らえられた後に殺され、水谷伊勢守は氏朝やその子持朝とともに討死した。 なお、結城合戦で実験にかけられた首のなかに、水谷姓の水谷大炊助の首がみえる(『永享記』『永享後記』)。
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