結城合戦と家名再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:07 UTC 版)
しかし、永享の乱により鎌倉公方が衰退すると結城氏の命運も暗転し、結城氏朝・持朝は永享の乱の後に6代将軍・足利義教に追われた4代鎌倉公方・足利持氏の遺児達を匿って幕府軍と結城合戦を行い一時滅亡する。その後、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、結城氏も氏朝の末子・結城成朝が召し出されて再興を許されたものの、家臣筋の多賀谷氏、山川氏、水谷氏らが独立色を強めたため、衰退の一途をたどる。成朝は成氏の命を受けて関東管領・上杉憲忠を謀殺し享徳の乱の勃発のきっかけとなる。足利成氏は古河に逃れて古河公方と称したが、結城氏は古河公方を支持して山内上杉家と長期にわたって争った。 戦国時代に入っても一貫して古河公方を支援する姿勢を続けた。そのような中で名君と呼ばれた15代当主・結城政朝が登場した。彼の治世の時、結城氏は、多賀谷氏や山川氏を屈服させ、さらに周辺勢力との抗争に勝ち抜くことにより、戦国大名としての飛躍を遂げることになる。『結城系図』・『結城家之記』には政朝を「結城中興」と記している。その子・政勝の時代には小山氏に子・高朝を送り同盟関係を強化し、晩年には分国法の「結城氏新法度」を制定するなど政治的・軍事的基盤を固め、勢威を常陸や下野にまで伸ばして、再びの最盛期を築き上げた。
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