第4戦車旅団の形成
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「第1親衛戦車旅団」の記事における「第4戦車旅団の形成」の解説
ウィキソースにソ連国家防衛委員会1941年9月13日付決議第671号の原文があります。 戦車部隊の壊滅を受け、赤軍総司令部は戦車部隊の再建を図った。1941年8月19日、第9機械化軍団第20戦車師団の指揮官だったミハイル・カトゥコフを指揮官に据え、第15戦車師団の残党勢力及び第20戦車師団の一部によって組織された第4戦車旅団が、スターリングラード州プルドボイ(ロシア語版)の村で発足した。これを受け、スターリングラードトラクター工場(英語版)で製造された新型のT-34が、第4戦車旅団に配備されることになった。第15戦車師団から配属されていた後のトップ戦車エース、ドミトリー・ラヴリネンコはこのときT-34小隊の小隊長に任命されており、「これでヒトラーに借りを返せる」と発言している。また、ウラルからはKV-1を主力とする重戦車中隊が加わった。 旅団としての体制が整うと、9月23日に必要な人員や物資を列車に積み込んで移動を開始し、9月28日にはモスクワ州クビンカ(ロシア語版)近郊のアクロヴォ(ロシア語版)村に到達した。移動を開始した時点で旅団には戦車が29両(T-34/76が22両、KV-1が7両)あり、さらにクビンカでBT-7やBT-5、修理中だった旧式のBT-2なども合流したため、最終的に49両の戦車を抱える規模へと成長した。なお、コンスタンチン・コジャノフ(ロシア語版)上級中尉指揮下の第3戦車大隊に関しては、この時点で戦闘装備の受領が完了していなかったため、クビンカに留まることとなった。 クビンカにおける保有戦車数49両では、1941年8月12日に発せられた国防人民委員部第0063号命令で定められた戦車旅団の基準を完全には満たしていなかった(旅団の戦車数は、46両や56両だったとする説もある)。10月3日までに完全に体制を整えた第4戦車旅団は、作戦上ドミトリー・レリュシェンコ(ロシア語版)少将指揮下の第1親衛狙撃兵軍団(ロシア語版)と行動を共にすることとなった。 第4戦車旅団の組織 (1941年10月3日時点) 旅団司令部 本部中隊 (中隊長:E・V・クチェルスキー) 偵察中隊 (中隊長:アンチモノフ大尉) 第4戦車連隊 (連隊長:エリョーミン少佐)第1戦車大隊 (大隊長:V・G・グセフ大尉)第1重戦車中隊 (中隊長:P・A・ザスカリコ大尉 7両のKV-1を配備) 第2中戦車中隊 (中隊長:V・I・ラコフ上級中尉 10両のT-34/76を配備) 第3中戦車中隊 (中隊長:A・F・ブルダ上級中尉 10両のT-34/76を配備) 第2戦車大隊 (大隊長:A・A・ラフトプーロ(ロシア語版)大尉)第1軽戦車中隊 (中隊長:K・M・サモヒン上級中尉 10両のBT戦車を配備) 第2軽戦車中隊 (中隊長:V・Y・ストロジェンコ(ロシア語版)上級中尉) 第3軽戦車中隊 第3戦車大隊 (大隊長:K・G・コジャノフ(ロシア語版)上級中尉) 歩兵大隊 (大隊長:D・A・カチェトコフ大尉) 対戦車砲兵大隊 対空砲兵大隊 (大隊長:I・V・アファナチェンコ大尉) 輸送中隊 工兵中隊 (中隊長:V・E・イワシェンコ) 衛生小隊 (旅団最高医療責任者:V・N・ポストニコフ)
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