競技生活の続行と成績の低迷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 09:57 UTC 版)
「村主章枝」の記事における「競技生活の続行と成績の低迷」の解説
2009年、モロゾフに「オリンピックのシーズンに日本人女子2人は難しい」と言われたためコーチの変更を決めた。8月、自らの課題をジャンプと設定し、アレクセイ・ミーシンにコーチを変更。練習拠点をロシアのサンクトペテルブルクに移したが、ミーシンコーチの多忙により10月にモスクワのイゴール・パシケビッチのもとに戻った。肋骨骨折の影響で夏前まで本格的な練習が出来ず、エントリーしていたネーベルホルン杯を欠場した。GPシリーズでは表彰台に立てず、全日本選手権では7位にとどまり、バンクーバーオリンピック、世界選手権、四大陸選手権のいずれの代表にも選出されなかった。 2010年3月に会見を開き、新たなスポンサーを見つけることを前提に現役続行を表明した。4月、9年間マネジメント契約してきたエーケー・グローバル・エージェントを離れ、サニーサイドアップにスポーツマーケティング事業部の社員として入社した。所属を陽進堂に決定し、「ソチオリンピック出場を目標に頑張る」と表明した。練習拠点を新横浜に戻し、佐藤紀子に師事することになった。しかし、GPシリーズでは8位と9位、全日本選手権では前年に続いて7位となり、世界選手権、四大陸選手権のいずれの代表にも選出されなかった。 2011-2012シーズンは、全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権でトリプルジャンプを全く跳ぶことが出来ず、12位に終わって上位10人の予選通過を逃し、全日本の出場権を得られなかった。2012年3月で陽進堂とのスポンサー契約は終了し、所属をサニーサイドアップに変えた。 2012-2013シーズンは、全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権で11位に終わって上位10人の予選通過を逃し、2年連続で全日本の出場権を得られなかった。 2013-2014シーズンは、2013年6月にサニーサイドアップを退社しフェニックスに入社、7月に所属先をKappaに決定した。全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権で11位に終わって上位5人の予選通過を逃し、3年連続で全日本の出場権を得られなかった。目標のソチオリンピックの出場権を逃したが、現役続行の意向を表明した。 2014-2015シーズンは、全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権で8位に終わって上位5人の予選通過を逃し、4年連続で全日本の出場権を得られなかった。 2014年11月13日、引退会見を開き今後は振付師を目指すと発表した。 トリノオリンピック以降9年間、女子シングル選手としては異例の33歳まで選手生活を続けたが、バンクーバーオリンピック、ソチオリンピック共に代表にはなれず、目標としていた3度目のオリンピックに出場出来ないまま現役を終える事となった。
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