秘密警察の父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:06 UTC 版)
「フェリックス・ジェルジンスキー」の記事における「秘密警察の父」の解説
十月革命後、国内で反対派のゼネストやデモが活発化し、更に列強諸国がこの動きを支援する形で軍事干渉を開始(ロシア内戦)した。この危機的状況下を耐え抜くために、レーニンは反政府運動を監視・摘発する治安部隊の必要性を感じていたが、こうした組織には政府への強い忠誠心が必要であった。レーニンは革命に全てを投げ打ってきたジェルジンスキーを「革命の使徒」として信頼しており、軍事委員であった彼に反革命勢力への断固たる「対処」を命令した。1917年12月20日、ジェルジンスキーは「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)」を創設、ヤーコフ・ペテルス、ヨシフ・ウンシュリフト、アブラム・ベレンキー、ヴャチェスラフ・メンジンスキーらと共に反体制派の摘発を開始した。 干渉戦争の激化につれてチェーカーの権限は強化され、最終的には令状無しでの捜査と略式裁判での処刑が認められた。ジェルジンスキー率いるチェーカーの部隊は次々と反政府グループを捕らえ、弁明の場を用意せずに射殺していった。街ではチェーカーによって反革命と見なされた人々が街灯に吊るされ、各地の収容所で数万人の政治犯が労働に従事させられていた。さらにチェーカーは聖職者と資本家・自由主義者に関しては仮に政府に従っていても見つけ次第、街頭で射殺した。ジェルジンスキーはチェーカー構成員に「我々は組織化された恐怖でなければならない」と訓示した上で、「赤色テロは反革命主義者の“根絶”を目的に行われる」と徹底的な粛清を厳命した。彼は自らの演説の中で「プロレタリア独裁の武装せる腕」と評した同機関を指導して国内の反対派摘発に大功を挙げ、革命直後に訪れた最大の危機を乗り越える上で重要な役割を果たした。 内戦終結後、チェーカーは「内務人民委員部附属国家政治局(GPU)」として治安維持のための常設機関となった。ジェルジンスキーはGPUの初代長官に就任し、構成員に町の至る所で目を光らせて監視と粛清を続け、民衆から畏怖される存在であり続けた。
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