神楽坂校舎時代とは? わかりやすく解説

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神楽坂校舎時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 14:15 UTC 版)

東京物理学校」の記事における「神楽坂校舎時代」の解説

1906年7月物理学校神楽坂二丁目24番地に木造新校舎竣工し移転した現在の東京理科大学近代科学資料館後出)はこの時の校舎復元し1991年建立されたものである / 画像参照)。この校舎その後関東大震災に際して大きな被害はなく、1937年10月鉄筋校舎現在の東京理大旧1号校舎)を新築した8年後(1945年5月)の山の手中心とした東京大空襲でも、周囲家屋多く被災したにもかかわらずこの鉄筋校舎はほとんど無傷で、1,970名もの罹災者収容先になった。 本部校舎以外には、1942年大学設置目指し学園が、大学予科校地として府下北多摩郡府中町国分寺前(現在の国分寺市)の約6m2の敷地購入、さらに翌1943年には八王子西中野町織物工場土地(約700坪)を購入した。しかし、これらの土地は後に農業理科学科の校舎及び学生寮などの用地として使用されることになった戦後1946年になって八王子郊外農業理科学科の校地として土地(約80,900坪)を取得したが、この校地1948年自作農創設特別措置法に基づき強制買収された。 東京物理学校は、1949年東京理科大学新設されるに際し神楽坂校舎でしばらく共存するその後1951年東京物理学校最後卒業生送り出し廃止され神楽坂校舎東京理科大学神楽坂本部キャンパスとして継承された。また国分寺校地1950年農業理科学科が廃止されたのちグラウンドとして使用されたが、1958年工場用地として東芝売却された(この売却益現在の東京理大野田キャンパス購入あてられた)。

※この「神楽坂校舎時代」の解説は、「東京物理学校」の解説の一部です。
「神楽坂校舎時代」を含む「東京物理学校」の記事については、「東京物理学校」の概要を参照ください。

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